松原城(現説) 神戸市
松原城は城史の変遷のなか?で佐々城・道場川原城・草下部城・蒲公英城とも呼ばれた城。2000年頃に(HPへは2003年のレポート)帰省途中に幾度か訪城しているが、荒(すさ)ましいばかりの鬱蒼とした雑木藪…に諦めかけたが
神鉄道場駅から
主郭と思えた東郭・西郭ともに大土塁(高土塁)上にいることは実感できるが、身体も隠れる程の篠竹藪を分けながら進む足下も見えない。土塁に囲まれた下方の曲輪の様子等は更に不明。白山(城山)稲荷神社の赤い鳥居が朽ち倒れている・水を湛える小さな井戸跡・数基の石塔類を見たが何処を如何進んでいたか記憶は?。
高い土塁が囲む西郭では現場説明中・真下に箱堀と閉塞土塁
東郭側は東郭下部には民家(空き家だったか?)が在って、有馬川と有野川が合流し武庫川に流れ出る道場川原村は、三木・有馬への湯山街道や摂津・丹波街道・加東・吉川へと嘉吉の乱に満祐が播磨国に退いた赤松道!…の交通が交錯する要衝で、鹿の子台地の北東先端・神鉄道場駅を挟む半独立河川段丘?状天然の要害地。
一次より下層に出土した石積み・石列・石敷は松原氏迄の旧遺跡?
南北朝期から天正期に掛けての戦国史と、蒲公英(たんぽぽ)城の伝承も残る郷土に誇れる貴重な歴史遺産だが、在地意識は都市化の波に呑み込まれてか希薄?、駅前開発により城趾は壊滅ではなく消滅する運命と知って、今年(2019)2月・久方ぶりに寄ってみたが重機が入り無人だが発掘調査中?…其の後8月には「現場説明会」があったらしいが行けず…。
調査は12月末まで調査は引続られるようだが…今回最終?「第二回現説」が実施される事を知り関連Webで日時を確認。今となっては当時の藪山さえ懐かしいが…表面観察も出来なかった貴重な歴史遺構が確認出来る。しかも今回はより下層の発掘なので陣城以前の旧松原氏らの旧遺構が観察できそうだが、
土塁の上層部は織田方による付城としての改修!
下層部基部には土留め補強と思える石列が露呈
最期の姿を見納め…とは空しいが… 二郭間に深い堀切があったこと、まして堀切北端は外敵侵入を閉鎖土塁で防ぐ「箱堀」であったこと、閉鎖土塁の北西下部には生活痕跡の集石土抗が見付かっていることから武者溜まりと考えられる曲輪、東郭と西郭間には「第一回現場説明会」以降の調査では未公開だった東郭・半ばまで発掘されていた堀切(箱堀)が
箱堀北方:末端は閉塞土塁と東郭切岸下曲輪間には横堀
南端曲輪?上まで拓かれ…全体を露呈…東郭大土塁北切岸下部には堀切(箱堀)北から繋がる横堀が検出された。大土塁は側面トレンチから基礎に石材を充填している下層部と、陣城として織田軍が三田城攻め陣城として緊急改修した上層部部分が観察される。
箱堀南方:堀底部にも石積!!?
手短に城下至近の有馬川・有野川から川原石が採取できるので、曲輪内には礎石建物と周囲には雨落ち溝石列や、庭池かとも思える様な石敷遺構・城跡自体が岩盤上にあり、礎石・石敷遺構の多様も松原城の特徴かと…
東郭下部(民家跡)から東郭に延びる上り土塁虎口?(資料に虎口は未確認?…登り口の溝穴は水甕を外した痕/甕の破片が残るがこんな場所に? コンクリ床・積まれたレンガも残っていた民家跡だけに、西郭内の石臼片に比べ・より出土遺品とは思えなかった…?)
織田軍の三田城攻め付城群として宅原城・立石城・茶臼山城…等が考えられるが、曲輪四方を大土塁で囲う特徴からは三木合戦の淡河城向城ともなった萩原城ともに、松原城廃城後秀吉方の有馬氏等?が改修し、三木合戦時の東方監視に使用されたとも推察するが?…
主に二郭(主郭・副郭)からなるが訪城の度に下段を取り巻く小曲輪、殊に三田城・横山城側を望む北や西北斜面の小曲輪群に興味をもったが立入り禁止で叶わなかったが、人知れず消滅する歴史遺構があることを思えば見学出来ただけでもありがたい…
神鉄道場駅から
主郭と思えた東郭・西郭ともに大土塁(高土塁)上にいることは実感できるが、身体も隠れる程の篠竹藪を分けながら進む足下も見えない。土塁に囲まれた下方の曲輪の様子等は更に不明。白山(城山)稲荷神社の赤い鳥居が朽ち倒れている・水を湛える小さな井戸跡・数基の石塔類を見たが何処を如何進んでいたか記憶は?。
高い土塁が囲む西郭では現場説明中・真下に箱堀と閉塞土塁
東郭側は東郭下部には民家(空き家だったか?)が在って、有馬川と有野川が合流し武庫川に流れ出る道場川原村は、三木・有馬への湯山街道や摂津・丹波街道・加東・吉川へと嘉吉の乱に満祐が播磨国に退いた赤松道!…の交通が交錯する要衝で、鹿の子台地の北東先端・神鉄道場駅を挟む半独立河川段丘?状天然の要害地。
一次より下層に出土した石積み・石列・石敷は松原氏迄の旧遺跡?
南北朝期から天正期に掛けての戦国史と、蒲公英(たんぽぽ)城の伝承も残る郷土に誇れる貴重な歴史遺産だが、在地意識は都市化の波に呑み込まれてか希薄?、駅前開発により城趾は壊滅ではなく消滅する運命と知って、今年(2019)2月・久方ぶりに寄ってみたが重機が入り無人だが発掘調査中?…其の後8月には「現場説明会」があったらしいが行けず…。
調査は12月末まで調査は引続られるようだが…今回最終?「第二回現説」が実施される事を知り関連Webで日時を確認。今となっては当時の藪山さえ懐かしいが…表面観察も出来なかった貴重な歴史遺構が確認出来る。しかも今回はより下層の発掘なので陣城以前の旧松原氏らの旧遺構が観察できそうだが、
土塁の上層部は織田方による付城としての改修!
下層部基部には土留め補強と思える石列が露呈
最期の姿を見納め…とは空しいが… 二郭間に深い堀切があったこと、まして堀切北端は外敵侵入を閉鎖土塁で防ぐ「箱堀」であったこと、閉鎖土塁の北西下部には生活痕跡の集石土抗が見付かっていることから武者溜まりと考えられる曲輪、東郭と西郭間には「第一回現場説明会」以降の調査では未公開だった東郭・半ばまで発掘されていた堀切(箱堀)が
箱堀北方:末端は閉塞土塁と東郭切岸下曲輪間には横堀
南端曲輪?上まで拓かれ…全体を露呈…東郭大土塁北切岸下部には堀切(箱堀)北から繋がる横堀が検出された。大土塁は側面トレンチから基礎に石材を充填している下層部と、陣城として織田軍が三田城攻め陣城として緊急改修した上層部部分が観察される。
箱堀南方:堀底部にも石積!!?
手短に城下至近の有馬川・有野川から川原石が採取できるので、曲輪内には礎石建物と周囲には雨落ち溝石列や、庭池かとも思える様な石敷遺構・城跡自体が岩盤上にあり、礎石・石敷遺構の多様も松原城の特徴かと…
東郭下部(民家跡)から東郭に延びる上り土塁虎口?(資料に虎口は未確認?…登り口の溝穴は水甕を外した痕/甕の破片が残るがこんな場所に? コンクリ床・積まれたレンガも残っていた民家跡だけに、西郭内の石臼片に比べ・より出土遺品とは思えなかった…?)
織田軍の三田城攻め付城群として宅原城・立石城・茶臼山城…等が考えられるが、曲輪四方を大土塁で囲う特徴からは三木合戦の淡河城向城ともなった萩原城ともに、松原城廃城後秀吉方の有馬氏等?が改修し、三木合戦時の東方監視に使用されたとも推察するが?…
主に二郭(主郭・副郭)からなるが訪城の度に下段を取り巻く小曲輪、殊に三田城・横山城側を望む北や西北斜面の小曲輪群に興味をもったが立入り禁止で叶わなかったが、人知れず消滅する歴史遺構があることを思えば見学出来ただけでもありがたい…
この記事へのコメント
蒲公英城懐かしいですね(^^)
現地説明会があったんですね。
蒲公英城がこんな風になっているとは!!
前にご案内頂いた時は、草むらと藪だらけでしたよね(笑)
この遺構が消えてしまうのは残念です。
>蒲公英城懐かしいですね(^^)
藪を突いて蛇…ジャないですが 蒸し暑いなかマムシ避けに杖で藪をかき分け 大土塁の上を歩いていたことを思い出しますね。
>現地説明会があったんですね。
今年8月に行けなかったが第一回現説があり 三田城に対する陣城らしい遺構が そして今回は 石敷遺構の更に其の下層部にも礎石建物や其の雨落ち溝…等石敷遺構が見つかり、土塁も土を盛り更に土塁を高くしている層が明確でした。岩盤上の城遺構ですが川が近いだけに、夥しい河原石多用の遺構は、往時の姿からは想像も出来ませんでした
>蒲公英城がこんな風になっているとは!!
>前にご案内頂いた時は、草むらと藪だらけでしたよね