常楽寺山砦 篠山市
R176号鐘ヶ坂トンネルを篠山市大山地区へ抜けるトンネル上部丘陵には織田信長:天下布武の号令に「丹波国攻略中」の明智光秀が、其の前進基地として叉:氷上郡<丹波市>黒井城(城主荻野直正)と多紀郡<篠山市>八上城(城主波多野秀治) 双方の監視と連携する勢力の分断を図る軍事の重要拠点として築いた金山城があった。
大山城大手?土橋から空堀大山荘地区に下ってくると西方に波賀尾山が見える。高くもなく目立つ山でもないが八ヶ尾山と共に標山(シメヤマ・まとやま:古代の民俗が集落地を求め移動の際に目標とした特殊な山)と定めた山は、丹南町油井城を本拠?酒井党の城と云い城址に寄った事が遺構は確認出来なかったが、其の東尾根筋末端部の市場砦(北野砦)<仮称>には最近立ち寄った。
常楽寺山砦<仮称>最下段(曲輪群/栃谷古墳群)遠望
北野念仏寺から貯水池に出る林道は、貯水池向いに市場砦<仮称>を見て西端の小丸山に至り林道の分岐を南にとると現:川代トンネルの手前の浄化センターに出て、大山城下を通らず篠山川(川代渓谷)沿いに山南町へ抜ける間道ともなり、小丸山頂部からは真下に街道が監視出来る位置だが前方後円墳(小丸山1号墳)がある。
市場砦の東は大山川を隔てて国道「長安寺」交差点近く・長安寺殿垣内は大山荘に初めに入部した中澤氏が長安寺館を構え本拠とした処。南方の丘陵部に長安寺砦<仮称>があったが、曲輪は古墳のマウンドを利用したものか?。東隣の宮田荘(西紀町)共に古墳の多い一帯。
丹波市には光秀本陣の茶臼山城の近くに野村城があるが、篠山市にも:共に珍しい大規模な平城の大山城があり、天正6年8月中澤孫十郎重基(城主は諸説あり…‼?)の時、落城した直後に金山城築城が着手されているので早急に落とす必要があったものか?、大山城には大光秀・織田信澄(家臣の藤堂高虎も参軍)・細川藤孝父子・丹羽長秀らが大挙して押し寄せている。
鉄砲等の近代兵器には無防備に近い平城だが、大山城域の西端から北方の市場砦や丸山古墳へ延びる独立丘陵最高所Ca325mに向かう尾根上Ca260m付近までに曲輪が点在する。民家背後の曲輪群までは比高僅か20m足らず。大山城西砦と仮称してみたいが城域主郭部の下部曲輪群は東約200ー250mの大山城主要郭に正対しており、周辺監視守備より圧倒的大軍による攻撃の向城に思えた。
曲輪の多くは古墳の墳丘を均した曲輪で取付いて直ぐに現われる5-6基の古墳は”県遺跡地図に「栃谷古墳群1ー9号墳で何れも径10ー16m内の円墳・木棺直葬と思え”篠山市大山下出谷栃谷”とあるが、所在は総じて山麓に在ったという常楽寺(所在不詳)から常楽寺山砦<仮称>(篠山市北野常楽寺山)とする。
常楽寺山砦最高地点の曲輪も径20mの中規模古墳か?
ただCa260mから最高所周辺にかけ城塞遺構を確認出来なかった。最下段(栃谷古墳群)の尾根左右の帯曲輪状は単に通路か?、一曲輪ごとの箱堀状は周溝痕とも思えず塹壕?。多過ぎる寄せ手の待機なり出撃準備調整の向城だったのかも…?。大山城の北方の市場砦<仮称>があり、西の常楽寺山砦(<仮称>城塞遺構は疑わしかった
が、同様に大軍で攻めた向城と推察すれば合点出来るかも…?。

大山城大手?土橋から空堀大山荘地区に下ってくると西方に波賀尾山が見える。高くもなく目立つ山でもないが八ヶ尾山と共に標山(シメヤマ・まとやま:古代の民俗が集落地を求め移動の際に目標とした特殊な山)と定めた山は、丹南町油井城を本拠?酒井党の城と云い城址に寄った事が遺構は確認出来なかったが、其の東尾根筋末端部の市場砦(北野砦)<仮称>には最近立ち寄った。
常楽寺山砦<仮称>最下段(曲輪群/栃谷古墳群)遠望
北野念仏寺から貯水池に出る林道は、貯水池向いに市場砦<仮称>を見て西端の小丸山に至り林道の分岐を南にとると現:川代トンネルの手前の浄化センターに出て、大山城下を通らず篠山川(川代渓谷)沿いに山南町へ抜ける間道ともなり、小丸山頂部からは真下に街道が監視出来る位置だが前方後円墳(小丸山1号墳)がある。
市場砦の東は大山川を隔てて国道「長安寺」交差点近く・長安寺殿垣内は大山荘に初めに入部した中澤氏が長安寺館を構え本拠とした処。南方の丘陵部に長安寺砦<仮称>があったが、曲輪は古墳のマウンドを利用したものか?。東隣の宮田荘(西紀町)共に古墳の多い一帯。
丹波市には光秀本陣の茶臼山城の近くに野村城があるが、篠山市にも:共に珍しい大規模な平城の大山城があり、天正6年8月中澤孫十郎重基(城主は諸説あり…‼?)の時、落城した直後に金山城築城が着手されているので早急に落とす必要があったものか?、大山城には大光秀・織田信澄(家臣の藤堂高虎も参軍)・細川藤孝父子・丹羽長秀らが大挙して押し寄せている。
鉄砲等の近代兵器には無防備に近い平城だが、大山城域の西端から北方の市場砦や丸山古墳へ延びる独立丘陵最高所Ca325mに向かう尾根上Ca260m付近までに曲輪が点在する。民家背後の曲輪群までは比高僅か20m足らず。大山城西砦と仮称してみたいが城域主郭部の下部曲輪群は東約200ー250mの大山城主要郭に正対しており、周辺監視守備より圧倒的大軍による攻撃の向城に思えた。
曲輪の多くは古墳の墳丘を均した曲輪で取付いて直ぐに現われる5-6基の古墳は”県遺跡地図に「栃谷古墳群1ー9号墳で何れも径10ー16m内の円墳・木棺直葬と思え”篠山市大山下出谷栃谷”とあるが、所在は総じて山麓に在ったという常楽寺(所在不詳)から常楽寺山砦<仮称>(篠山市北野常楽寺山)とする。
常楽寺山砦最高地点の曲輪も径20mの中規模古墳か?
ただCa260mから最高所周辺にかけ城塞遺構を確認出来なかった。最下段(栃谷古墳群)の尾根左右の帯曲輪状は単に通路か?、一曲輪ごとの箱堀状は周溝痕とも思えず塹壕?。多過ぎる寄せ手の待機なり出撃準備調整の向城だったのかも…?。大山城の北方の市場砦<仮称>があり、西の常楽寺山砦(<仮称>城塞遺構は疑わしかった

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