推行舎Ⅰ 依藤方敬と野々口隆正 丹波市

小川小学校の前身=”崇廣館(柏原藩校)支校:推行舎”…について
廃藩置県(明治4年~)に丹波は京都丹波と兵庫丹波に分れ兵庫丹波は二郡(氷上郡=現丹波市と多紀郡=篠山市:現丹波篠山市)となった。丹波市の南端に位置する山南町小川地区は村森・井原・奥・岩屋・野坂・南中の6部落で組織され、北方の氷上町から和田地区を境する西を旧佐治川(現:加古川上流部)が、
 霊雲寺にも寺子屋があった(嘗て山門は二重門(楼門)だった…!!)
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東方からは篠山市から久下地区を抜け・西脇市黒田庄町を境する篠山川が井原橋(”道の駅・山南仁王駅”とイタリ山公園がある)付近で合流し加古川となり南の東播磨へと流れ出る。此のイタリ山北裾に野々口隆正=大国(野之口)隆正(国学者・歌人 寛政4ー明治4: 1793-1871)【いたり山 道のいたりは日の本の もとつ教えのほかにあらめや】の歌碑が立つ。
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嘉永3年(1850)門人の依藤方敬(野坂)・藤井秀澄(井原の医者)等により建立されたもの。(参考)幕末の国学者・歌人:野之口隆生は津和野(山口県)藩士今井某(以降詳細割愛)が野之口に姓を改めているが、著書等からも晩年称した「大国隆生」の名でより知られる。依藤方敬は柏原藩谷川陣屋野坂代官所の代官で養父:依藤平八郎(方昶)の家督を継ぎ平八郎を襲名し方敬を号している。
井原橋さくら公園:野々口隆正の歌碑
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野坂依藤氏の祖は小川村史年表によると三木城落城の天正8年(1580)播州依藤野(加東市:小沢城か!?)城主(赤松)依藤方晴?が野坂に落ち来住…とあるが、野坂依藤氏の家系や詳細は不詳。慶安元年(1648)柏原藩織田信勝命で和田・野坂・岩屋等諸村領民により中村新田(南中)開発に着手。慶安3年織田上野介信包の子:弥十郎信直が柏原藩谷川陣屋を置き谷川の他当地を領す。
 本丸稲荷・公民館(高瀬城跡)が谷川陣屋跡!!
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元禄6年(1693)井原庄奥村の出戸:野坂村を独立。元禄8年織田信休の柏原藩入封の頃?には野坂代官所が置かれ依藤平八郎(方昶)を柏原藩谷川陣屋:織田(肥後守)の御目付役(代官!?)とした。依藤平八郎(方敬)は寛政11年(1799)天田郡荒川村(福知山市)井口半左衛門の弟で、平八郎(方昶)の養子となり四女と結婚。
  野坂代官所(山際の畑地)
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文政8年(1825)養父の死去により27歳で家督を継ぎ平八郎を襲名し方敬と号し、養父同様:柏原藩より地代官職を命ぜられ名字帯刀御免二人扶持三石五斗を賜った。
推行舎 Ⅱに続く…自治制発布50周年記念事業として発刊された「小川村誌 第一集(昭和13年)」村長:依藤源右衛門・「第二集(昭和27年)」村長:横山吉兵衛・「第三集(昭和30年)」解村し山南町に合併の為編纂:廣瀬平三郎…及び「山南町誌(昭和63年版)」を参照

この記事へのコメント

YORI
2020年09月09日 22:41
天々さん、こんばんは。
コロナの影響が収まらない事や、7月から週2~3回のシルバー勤務を始め出して、なかなか野坂の墓参りにも帰れなくなってます。
柏原で行われている明智光秀の講演会も、三密を避ける意味で参加をキャンセルしました(^^;
依藤氏の研究も中休み状態ですが、余裕が出てきたらまた再開しようと思ってます。

推行舎Ⅱも楽しみにしています(^^)
天々宇知栗
2020年09月10日 09:29
YORIさん 久方振りですね。
早速のチエック…してもらっていますね!!(-_-;)
日吉神社神宮寺の清雲寺と崇廣館支校:推行舎として新設か改修された場所は公民館の場所と思われますが
以前案内した場所が旧清雲寺(寺子屋があった)場所と考えます。霊雲寺の修養道場も此処にありましたね

禅宗の霊雲寺が 真宗の阿弥陀如来を祀る御堂を建てていたとは思えませんね? 旧清雲寺の宗派を未調査ですが!

また郷土史に載る「野々口隆生」は野々口でも間違いではないのですが野之口(晩年:大国姓を名乗る)隆生とします
方敬が隆生を招き茶席を設けた嘉永3年は隆生が小野藩を辞し京都・姫路や津和野藩藩校・江戸間を往来していた頃なので「野坂代官所」に併せ追加修正しました

国学の志として新撰組に狙われていた京都の逸話が分かれば面白いのですが…
 

>天々さん、こんばんは。
>コロナの影響が収まらない事や、7月から週2~3回のシルバー勤務を始め出して、なかなか野坂の墓参りにも帰れなくなってます。
>柏原で行われている明智光秀の講演会も、三密を避ける意味で参加をキャンセルしました(^^;
>依藤氏の研究も中休み状態ですが、余裕が出てきたらまた再開しようと思ってます。
>
>推行舎Ⅱも楽しみにしています(^^)

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