松山城 (peparcraft)

松山城へは30数年前?で記憶も曖昧で定かでないが…パラボラ塔を乗せる電電公社(現NTT松山?)近くから城趾へ登った。コースが搦手か?・公園からが大手道か?…山上郭に取外された?駕籠型ゴンドラを見た様な?。キャスリングが趣味の今なら:二の丸庭園から延びる「登り石垣」…等、山城の興味を惹く数々の遺構にもっと目を向けていた筈(残念)。
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松山市中心部の丘陵:勝山(標高132m)に主郭を置く松山城(勝山城・金亀城) は、麓に二之丸史跡庭園ー三之丸(堀之内)ー山上に天守を置く主郭に至る広大な平山城。羽柴秀吉直臣として三木合戦に・賤ヶ岳の合戦では有名な七本槍の一:秀吉没後は石田三成に叛し「関ヶ原の戦い」に徳川家康に付いて軍功を挙げ、
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20万石?取り大名となった加藤嘉明が慶長7年(1602)から安政元年(1854)にかけ250有余年:我国築城史上最長の歳月をかけ完成した四国最大の城郭だが、加藤氏は城の完成を見ず寛永4年(1627)会津藩へ転封となり、藩主は蒲生氏に代わるが藩主の死で断絶すると大洲藩主:加藤氏が城在番を勤め、寛永11年(1634)久松松平宗家の松平定行(徳川家康は伯父にあたる)から
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松山藩14代:定昭で明治維新(1868年)を迎えた235年間に渡り、親藩(徳川家親族が当主の)大名松平家の居城となった。国内に12ヶ所しか残っていない「現存12天守」のなかでも、隅櫓を渡櫓で結ぶ天守建造物群・天守と小天守を備えた城郭は姫路城と並ぶ連立式天守。大阪城を牽制する天下普請篠山城も松井松平・形原松平・藤井松平が勤めている。(参考に徳川三卿=徳川家一族から分家の田安・一橋・清水)
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国内で唯一現存する望楼型二重櫓の野原櫓(天守の原型と云われる)・現存12天守の城郭に限っては「登り石垣」が残るのは松山城と彦根城だけで、麓の二之丸と山頂の天守を2つの石垣で繋ぐ。堀之内を含む城山公園全体が国の史跡で、平成2年「日本さくら名所100選」・平成18年「日本100名城・日本の歴史公園100選」・平成19年には道後温泉とともに「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されている。
 (松山城総合事務所サイト・Wikipedia…を参照)

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