平木土塁遺構(仮称) 加東市

丹波市側からは県道77号篠山川沿いの川代峡谷(渓谷)入口の川代公園・丹波竜の里公園側から阿草地区を抜け、篠山市味間方面からの県道36号(西脇市方面)・途中黒石ダムで292号を今田町に向かい「市原」交差点に出る。不来坂から小野原・市原を加東市に抜け三草山麓から三木市・神戸市(鵯越で須磨浦)へ、
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源平合戦に源義経がを駆抜けた街道。播磨・丹波・摂津(三田・大阪方面)を繋ぐ要衝の地。此処:市原に城山(市原城)を築いて移った小野原采女の父・小野原掃部の木津(こつ)城が県道141沿いの南方約2.5km程に見える。此の木津城の手前約700m程・切開かれた小峠の丘陵東端が東条川に落ちる所に瀬戸地蔵があり
 「瀬戸地蔵」から木津古城(左)と峠の右手に土塁遺構のある丘陵
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参詣用駐車スペースからは目前の石切場の上に木津城・西に少し低い丘陵部の間を南へ抜ける車道があるが、木津城は篠山市だが西の丘陵端は加東市の平木地区。此の西に続く丘陵中程に送電線鉄塔(関電奥多々良木線94 昭和49年)が建つが、切通しの峠に掛かる断崖状上部から送電線鉄塔を経て
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平木集落側の西端まで平木土塁遺構【幅1ー1.5m・高さ1.5ー3.5m程の土塁線が凡そ350mほど】が延々と続く。獣除の猪垣なら山麓沿いにある筈!。鉄塔近くに工事と猪によるものか土塁の寸断欠損部分があるが、南面には木津城を背にして随所に平坦地(曲輪)を配置。北は急斜面だが2ヶ所ほど下方を窺う様な小曲輪もある。
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鉄塔の建つ広場からは木津城・和田寺山を望み西に清水寺も近い。土塁線は峠の切通しから木津城側へは延びていないが旧街道筋だったか?。崖となる土塁先端部南側に観る低い土塁囲み小曲輪?状は、峠監視所でもあったか!?。丘陵上の土塁線北面は地理院地図破線が平木集落や清水寺車道参道へも通じる。
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小野原氏は天正3ー4年頃?には木津城を廃し資材を移築して市原城を築いているので、土塁だけの遺構は天正6年:播磨攻め羽柴秀吉の三木城包囲・兵糧物資輸送阻止の多重土塁がある。秀吉は三木の「干し殺し」(天正6ー8年)同様に城攻め長期戦に鳥取城の「渇え殺し」(天正9年)がある。
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此処でも街道監視・兵糧輸送遮断するため丘陵上にも長い土塁線が築かれていた!…。三木別所氏とは姻戚関係にある篠山八上城の波多野氏・丹波黒井城の荻野・赤井氏等、および北播磨(西脇市・加東市…)からの別所氏加勢の援軍を警戒し、街道封鎖しての監視・防禦目的とした関連施設ではなかったか…!!?。
 鉄塔巡視路からも”上り土塁”状に先へと延びる
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此の位置が今田町市原・直近に清水山(清水寺)があり、北西麓の住吉神社の交差点も市原から続く街道で…北播磨・丹波・摂津を繋ぐ要衝の交差点で軍道としての利用価値も大。他にも北播磨側に土塁遺構があるのかも知れない…!!。
 土塁東末端は竪堀状となり崖下(峠)に落ちる
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