西ノ山城(仮称) 篠山市新荘
大期山へは2004年に笛吹山城から三角点頂を訪れているが、大期山山頂から南へ延び出す尾根上に西ノ山城(仮称)があり、大期山南東尾根先端からは八上城を南正面に望み篠山川に沿って近年公園化で壊滅した野間砦と塚ノ山砦・勝山城(中央ゴルフ場)・般若寺城…等明智軍の付城位置が望まれる。県道702号から見ると、
一本北を東西に走る県道301号線を挟んで小島の様に沢田城・筋山・前山・馬地山(比高4-50m)の丘が点在し、東端を青山台ゴルフ場の丘が篠山盆地の川北部を南北に塞ぐ。県道301号(本郷東浜谷線)沿い「新荘」に鎮座する轟八幡神社の北方、集落最奧・養魚場上の貯水池西の丘陵上430mの尾根上に西ノ山城(仮称)があり、
轟八幡神社(新荘山ノ口)から見て集落西に位置する西ノ山城。大期山南東尾根先端からは眼下に八上包囲の上記付城群を擁する丘陵(ゴルフ場)・篠山川を前衛の堀として八上高城を正面に望む。眺望の効く広過ぎる綺麗な平坦地形!!は城趾の曲輪群まで距離もあり山岳寺院跡?か、其の堂宇利用した出曲輪の見張所だったか?。
西ノ山城の縄張り形状は南先端曲輪や土塁道・堀底道?状通路が深く長い崩壊谷に落ちる。尾根先の南東に向かって幾重にも同心円状に2-5m程の切岸で繋がる小曲輪群を裾拡がりに落とす。 岡野地区に訪れた名柄芦北城(仮称)にも似た同心円状に築かれる曲輪群だが、山麓からは確認し辛い位置にあり領内監視の領主の城ではなく、八上城包囲の後方支援?か将兵の駐屯地?。八上城包囲中の前哨戦での
八百里城攻略の付城だったか? 。一時期とは云え多紀郡を領有した三好長慶・内藤・松永らの三好軍が八上城に近接して法光寺に付城群を築いている。 波多野氏が八上城奪還までの数年!?、各所に砦を築き拠点の八上城周辺(此処や岡野地区の名柄芦北城(仮称)の特異な縄張り(雛壇状の曲輪群)は大部隊の駐屯基地か?…
氷上郡・多紀郡に三好・内藤氏が侵攻しているが三好軍の戦略上の砦等を知るに余りにも情報不足?だが、 多紀を占有した三好・内藤勢にとって金山城や馬頭砦・追入砦にしても南から氷上郡を窺い侵攻できる絶好の地。主郭上の尾根続き:竪堀状崩壊跡に幅狭い堀切土橋?等は一領主の砦ではなく、三好方が築き・次いで丹波攻略の明智勢により改修・増設されたものとも推察します。
尾根続き城域北端を土橋付堀切で遮断・尾根筋も竪堀(崩壊痕も多い)急斜面・最上段の主郭を帯曲輪と曲輪群が囲む。大河ドラマ化に地元でもマイナーな八百里城が少しは見直されたか?、西ノ山城からは直線距離で約1km程の山城は、八上城支城として籾井城(籾井越中守教業)・細工所城(荒木山城守氏綱)ともに規模の大きな山城の八百里城(畑牛之丞守能)がある。
オッ!!曲輪…と思えたが平凡な大期山山頂に3等三角点石標が埋まる八上城攻略の明智光秀は・中国毛利攻めから播磨三木城攻めに転じた羽柴秀吉同様に、八上城を包囲し大軍により周辺の城を一つ一つ落としていきます。籾井城や細工所城には壮絶な落城悲話も伝わります。八百里城も例外ではなく数日は猛攻に耐え抵抗したことでしょうか!?。

一本北を東西に走る県道301号線を挟んで小島の様に沢田城・筋山・前山・馬地山(比高4-50m)の丘が点在し、東端を青山台ゴルフ場の丘が篠山盆地の川北部を南北に塞ぐ。県道301号(本郷東浜谷線)沿い「新荘」に鎮座する轟八幡神社の北方、集落最奧・養魚場上の貯水池西の丘陵上430mの尾根上に西ノ山城(仮称)があり、
轟八幡神社(新荘山ノ口)から見て集落西に位置する西ノ山城。大期山南東尾根先端からは眼下に八上包囲の上記付城群を擁する丘陵(ゴルフ場)・篠山川を前衛の堀として八上高城を正面に望む。眺望の効く広過ぎる綺麗な平坦地形!!は城趾の曲輪群まで距離もあり山岳寺院跡?か、其の堂宇利用した出曲輪の見張所だったか?。
西ノ山城の縄張り形状は南先端曲輪や土塁道・堀底道?状通路が深く長い崩壊谷に落ちる。尾根先の南東に向かって幾重にも同心円状に2-5m程の切岸で繋がる小曲輪群を裾拡がりに落とす。 岡野地区に訪れた名柄芦北城(仮称)にも似た同心円状に築かれる曲輪群だが、山麓からは確認し辛い位置にあり領内監視の領主の城ではなく、八上城包囲の後方支援?か将兵の駐屯地?。八上城包囲中の前哨戦での
八百里城攻略の付城だったか? 。一時期とは云え多紀郡を領有した三好長慶・内藤・松永らの三好軍が八上城に近接して法光寺に付城群を築いている。 波多野氏が八上城奪還までの数年!?、各所に砦を築き拠点の八上城周辺(此処や岡野地区の名柄芦北城(仮称)の特異な縄張り(雛壇状の曲輪群)は大部隊の駐屯基地か?…
氷上郡・多紀郡に三好・内藤氏が侵攻しているが三好軍の戦略上の砦等を知るに余りにも情報不足?だが、 多紀を占有した三好・内藤勢にとって金山城や馬頭砦・追入砦にしても南から氷上郡を窺い侵攻できる絶好の地。主郭上の尾根続き:竪堀状崩壊跡に幅狭い堀切土橋?等は一領主の砦ではなく、三好方が築き・次いで丹波攻略の明智勢により改修・増設されたものとも推察します。
尾根続き城域北端を土橋付堀切で遮断・尾根筋も竪堀(崩壊痕も多い)急斜面・最上段の主郭を帯曲輪と曲輪群が囲む。大河ドラマ化に地元でもマイナーな八百里城が少しは見直されたか?、西ノ山城からは直線距離で約1km程の山城は、八上城支城として籾井城(籾井越中守教業)・細工所城(荒木山城守氏綱)ともに規模の大きな山城の八百里城(畑牛之丞守能)がある。
オッ!!曲輪…と思えたが平凡な大期山山頂に3等三角点石標が埋まる八上城攻略の明智光秀は・中国毛利攻めから播磨三木城攻めに転じた羽柴秀吉同様に、八上城を包囲し大軍により周辺の城を一つ一つ落としていきます。籾井城や細工所城には壮絶な落城悲話も伝わります。八百里城も例外ではなく数日は猛攻に耐え抵抗したことでしょうか!?。
この記事へのコメント