大山宮城 / 大山宮西城(仮称) Ⅱ 篠山市
大山宮城<(トノ山 280m 篠山市大山宮):北向かいのお屋敷の敷地で栗の接ぎ木作業中の方に声掛けして「立ち入り禁止」札の上部から激急斜面に取付いたので浅いが長い竪堀沿いに登り詰め竪堀を窺う左右に曲輪に着いた。
大山宮城:主郭切岸と帯曲輪その上に35x15m程の広い帯曲輪・その上に15㎡程の綺麗な二ノ曲輪・藪っぽい最上段が10x4m程の主郭で愛宕か?稲荷社?の祠跡石礎壇が残り尾根続木ノ背後に堀切がある。単郭ながら竪堀・堀切・低土塁・曲輪が一応!?整った山城で、
大山宮城:主曲輪から帯曲輪主曲輪には愛宕社か稲荷社の石組礎壇が残されている。参拝者も途絶えた山麓の荒れた踏跡程度の参道(藪で隠れている)だが取付きを急がず:も少し奥まで進めば・主郭帯曲輪や獣避けフエンス沿いに尾根続き裏手の堀切に繋がる。
大山宮城:主郭背後の堀切大山宮西城(Ca348m 篠山市大山宮)。大山宮西城へは大山宮城の堀切を越えて、なお長く感じる尾根続きの先に出会す山城遺構だけに…山城探索に出掛けても、余ほどの確証でもなければ諦められるのかも…?。大山宮西城からの尾根を西へ詰め登れば山レポートの金山城ー馬頭ー406m峰ー古坂…に記した
大山宮西城の主曲輪高畑山(461.4m)への縦走路だ。市境尾根鞍部の古坂は丹波市山南町上滝から旧丹南町大山宮の追手神社に通じる、古来より今も利用されてきた間道!?だ…が高畑山から東尾根上の大山宮西城からは古坂峠の往来や在郷領内に眺望も効かず監視砦とも思えず…。
大山宮西城:前面堀切上の段曲輪下段の大山宮城なら嘗て陣所も置かれた追入宿場町の粗中央部に尾根端を落とす位置にある。大山宮上城と下城の築城目的・城主等一切不明だが、東寺の荘園に大山荘地頭職として入部した中沢氏や、永正年中…!?には波多野氏の支配下にあり、天分末期ー永禄年中?一時期には
大山宮城二曲輪?から三曲輪:下段に帯曲輪が付く三好・松永氏らにより多紀郡が10数年占拠されていた時期もあり、存在さえ知られざる山城にはいつの日か!!・謎に迫る資料なり探究結果に期待したい。大山宮西城の規模は大山宮城に比べて小さい…が主郭部の尾根筋前後を堀切で遮断:とりわけ尾根続き背後の堀切は大きく深い。
大山宮城:主郭切岸と帯曲輪その上に35x15m程の広い帯曲輪・その上に15㎡程の綺麗な二ノ曲輪・藪っぽい最上段が10x4m程の主郭で愛宕か?稲荷社?の祠跡石礎壇が残り尾根続木ノ背後に堀切がある。単郭ながら竪堀・堀切・低土塁・曲輪が一応!?整った山城で、
大山宮城:主曲輪から帯曲輪主曲輪には愛宕社か稲荷社の石組礎壇が残されている。参拝者も途絶えた山麓の荒れた踏跡程度の参道(藪で隠れている)だが取付きを急がず:も少し奥まで進めば・主郭帯曲輪や獣避けフエンス沿いに尾根続き裏手の堀切に繋がる。
大山宮城:主郭背後の堀切大山宮西城(Ca348m 篠山市大山宮)。大山宮西城へは大山宮城の堀切を越えて、なお長く感じる尾根続きの先に出会す山城遺構だけに…山城探索に出掛けても、余ほどの確証でもなければ諦められるのかも…?。大山宮西城からの尾根を西へ詰め登れば山レポートの金山城ー馬頭ー406m峰ー古坂…に記した
大山宮西城の主曲輪高畑山(461.4m)への縦走路だ。市境尾根鞍部の古坂は丹波市山南町上滝から旧丹南町大山宮の追手神社に通じる、古来より今も利用されてきた間道!?だ…が高畑山から東尾根上の大山宮西城からは古坂峠の往来や在郷領内に眺望も効かず監視砦とも思えず…。
大山宮西城:前面堀切上の段曲輪下段の大山宮城なら嘗て陣所も置かれた追入宿場町の粗中央部に尾根端を落とす位置にある。大山宮上城と下城の築城目的・城主等一切不明だが、東寺の荘園に大山荘地頭職として入部した中沢氏や、永正年中…!?には波多野氏の支配下にあり、天分末期ー永禄年中?一時期には
大山宮城二曲輪?から三曲輪:下段に帯曲輪が付く三好・松永氏らにより多紀郡が10数年占拠されていた時期もあり、存在さえ知られざる山城にはいつの日か!!・謎に迫る資料なり探究結果に期待したい。大山宮西城の規模は大山宮城に比べて小さい…が主郭部の尾根筋前後を堀切で遮断:とりわけ尾根続き背後の堀切は大きく深い。
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