舟城神社砦(仮称) 丹波市春日町
向山連山に濫觴の一滴を発し「水分れ」で高谷川が加古川から瀬戸内海へ・黒井川が竹田川・土師川・由良川に継ぎ日本海へ流れ出る。此の黒井盆地の粗中央を流れる黒井川沿いに船城小学校があり、南方を走るR175号が向山連山:四ノ山(天ヶ嶽城)西麓の歌道谷(うとうだに)に船城神社があり、此の船城神社標識とバス停のあるT字辻を真っ直ぐ北へ向かう車道が、
舟城神社参道(登り口から黒井城・千丈寺砦を望む)
左手に野山城(後:黒井城主となった荻野直正が内藤氏を追返した初陣の城)を望みながら県道285号に合流すると、左折して氷上町桟敷で県道7号に出る賀茂春日線。天王坂は忠臣蔵で有名な大石内蔵助の妻:りくが但馬への帰郷に越えた但馬道。峠の上には初代城主を西波多野氏の宗高とされるが、実在人物かさえ不詳の幻の氷上城とされる霧山城がある。
下段曲輪群(井戸曲輪と主曲輪部)此の天王坂への春日町側登り口にも「舟城神社」があって一寸ややこしい!!かも”天神さん”ではないが本殿前に牛の置物が…!…嘗て牛を牽いて参拝した「牛頭天王社(家畜の守護神)」だが、左右に阿吽の狛犬が立つ。彫師に「野村の伊助」の名が刻まれ以前は無かった説明案内板が立てられている。春日町野村は難波伊助の産・野村から柏原の大新屋に移った初代:難波金兵衛で、
下段曲輪群(上段との間を分ける空堀(右手)と堀底道(左手))養子に迎えた丹波佐吉(村上源照信)の名はよく知られるところ。今回は此の本堂裏手の八柱神社側から背後の丘陵へ。神主も裏山へは入られた様で山城の存在は兎も角「堀」があることは御存知だった。黒井城からは黒井川を挟み圃場が拡がる平野部の西端に明智の付城群の一新才城がある。香良合戦の際:荻野直正が傷を負い絹山の”勝坂”を北油良へ・
下段曲輪群(上部にも段曲輪が…)
更に南由良から牛河内へ…坂を下れば新才。光秀の黒井城攻めに弟:赤井幸家が但馬竹田城から急遽引返し本城に入ったのも牛河内の由良坂。香良合戦において氷上側への侵攻や春日側への撤退に天王坂が使用された形跡は少ない様?で、篠山市から丹波市氷上町‐青垣町‐遠阪峠へ抜ける但馬道が要衝として利用されるようになったのは後のことか?。
上段曲輪群北方には氷上町由良境の低丘陵部が続くが南・西方に拡がる平野部も西端も、横田城・野山城・霧山城が氷上町氷上・市辺町境の丘陵部で遮られる黒井盆地の一方の隅:天王坂への登り口(県道285号)に舟城神社があるが、黒井城・千丈砦を正面に望み新才城まで約1km地点にある。
黒井城包囲の光秀の付城群は、黒井城正面に茶臼山城・南西には嘗て直正(才丸)を城主と仰ぎ迎えた荻野衆の朝日城があるが、西端の居住性が高い舟城神社砦(仮称)は、新才城・山田城・牛河内砦…等を付城・前線基地として、また但馬街道を北方から天王坂を越えてくる足立・芦田氏他の援軍侵入阻止監視と
上段曲輪群主郭付城群後方支援にも当たった陣城だったか…?。一城別郭の舟城神社砦は八柱神社背後に井戸?曲輪・居住空間を持つ広い曲輪を廻す上段に3っばかりの小曲輪が並ぶ主郭・尾根続きを空堀で遮断:東端に一本の堀底道が上段の段曲輪に繋がり露岩を背にして縄張りは一端途切れ、
上段曲輪群主郭北端からの竪堀北から西方へ尾根筋が変わる比高20m程上部の尾根筋約60m程の範囲(殊に東北側斜面に小曲輪群を、尾根筋に段差の少ない5-6ばかりの段曲輪をならべ、城域末端付近から北下方に竪堀が一本・神社から登ってくる作業林道終点側に落ちるだけ。縄張りの異なる二郭だが共に顕著な防禦施設(曲輪切岸・土塁・堀等)をみない。
舟城神社参道(登り口から黒井城・千丈寺砦を望む)
左手に野山城(後:黒井城主となった荻野直正が内藤氏を追返した初陣の城)を望みながら県道285号に合流すると、左折して氷上町桟敷で県道7号に出る賀茂春日線。天王坂は忠臣蔵で有名な大石内蔵助の妻:りくが但馬への帰郷に越えた但馬道。峠の上には初代城主を西波多野氏の宗高とされるが、実在人物かさえ不詳の幻の氷上城とされる霧山城がある。
下段曲輪群(井戸曲輪と主曲輪部)此の天王坂への春日町側登り口にも「舟城神社」があって一寸ややこしい!!かも”天神さん”ではないが本殿前に牛の置物が…!…嘗て牛を牽いて参拝した「牛頭天王社(家畜の守護神)」だが、左右に阿吽の狛犬が立つ。彫師に「野村の伊助」の名が刻まれ以前は無かった説明案内板が立てられている。春日町野村は難波伊助の産・野村から柏原の大新屋に移った初代:難波金兵衛で、
下段曲輪群(上段との間を分ける空堀(右手)と堀底道(左手))養子に迎えた丹波佐吉(村上源照信)の名はよく知られるところ。今回は此の本堂裏手の八柱神社側から背後の丘陵へ。神主も裏山へは入られた様で山城の存在は兎も角「堀」があることは御存知だった。黒井城からは黒井川を挟み圃場が拡がる平野部の西端に明智の付城群の一新才城がある。香良合戦の際:荻野直正が傷を負い絹山の”勝坂”を北油良へ・
下段曲輪群(上部にも段曲輪が…)
更に南由良から牛河内へ…坂を下れば新才。光秀の黒井城攻めに弟:赤井幸家が但馬竹田城から急遽引返し本城に入ったのも牛河内の由良坂。香良合戦において氷上側への侵攻や春日側への撤退に天王坂が使用された形跡は少ない様?で、篠山市から丹波市氷上町‐青垣町‐遠阪峠へ抜ける但馬道が要衝として利用されるようになったのは後のことか?。
上段曲輪群北方には氷上町由良境の低丘陵部が続くが南・西方に拡がる平野部も西端も、横田城・野山城・霧山城が氷上町氷上・市辺町境の丘陵部で遮られる黒井盆地の一方の隅:天王坂への登り口(県道285号)に舟城神社があるが、黒井城・千丈砦を正面に望み新才城まで約1km地点にある。
黒井城包囲の光秀の付城群は、黒井城正面に茶臼山城・南西には嘗て直正(才丸)を城主と仰ぎ迎えた荻野衆の朝日城があるが、西端の居住性が高い舟城神社砦(仮称)は、新才城・山田城・牛河内砦…等を付城・前線基地として、また但馬街道を北方から天王坂を越えてくる足立・芦田氏他の援軍侵入阻止監視と
上段曲輪群主郭付城群後方支援にも当たった陣城だったか…?。一城別郭の舟城神社砦は八柱神社背後に井戸?曲輪・居住空間を持つ広い曲輪を廻す上段に3っばかりの小曲輪が並ぶ主郭・尾根続きを空堀で遮断:東端に一本の堀底道が上段の段曲輪に繋がり露岩を背にして縄張りは一端途切れ、
上段曲輪群主郭北端からの竪堀北から西方へ尾根筋が変わる比高20m程上部の尾根筋約60m程の範囲(殊に東北側斜面に小曲輪群を、尾根筋に段差の少ない5-6ばかりの段曲輪をならべ、城域末端付近から北下方に竪堀が一本・神社から登ってくる作業林道終点側に落ちるだけ。縄張りの異なる二郭だが共に顕著な防禦施設(曲輪切岸・土塁・堀等)をみない。
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