北由良城 丹波市氷上町

伊佐口・香良・絹山地区は五台山・鷹取山・愛宕山・五大山に囲まれ、地区最奥にある独古の滝・浅山不動尊を流れる香良谷川が三地区の中央部を加古川に流れ出る。此処が弘治元年(1555)勃発し三地区一帯に展開された香良合戦の舞台。この合戦に黒井城主:荻野直正が負傷し部下に背負われ遁れたのが絹山地区の「勝坂」。
      主郭の土塁と堀切:尾根続き土壇(古墳?)の手前には空堀!
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明智光秀「丹波攻略」に唯一光秀を撃退した黒井城:荻野直正だが叔父で先の黒井城主:荻野秋清を刺殺したのが天文23年(1554)。翌年に勃発したのが香良合戦だが、通説とされているのが:赤井氏一族を討って欲しいとの芦田氏・足立氏要請を受けた:三好長慶・松永久秀・丹波守護代松永長頼(内藤宗勝)等三好軍の細川氏綱VS細川晴元方の赤井時家等赤井・荻野氏一族よる…細川家内紛の代理戦争とされるが、
      二軒の民家の中央奥の低丘陵部に「北由良城」はある
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通説に頼るには不確かで釈然としない。荻野家盟主にと懇願され赤井家から迎えた才丸(荻野直正の幼名)との養子縁組や、秋清刺殺には荻野・赤井家臣団の一部上層部だけで勝手に決め遂行されたことなのか?…秘密保持とはいえ直正の城主謀殺に対し家臣団の多くは黙認?していたこと…、城主となっても元の赤井姓を名乗らないこと等に赤井・荻野両家等々に不満が鬱積していたと推察される。
          主郭北面の切岸
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この年(弘治元年1555)三好長慶・松永久秀は八上城攻めに失敗し、幾度か攻めた奥丹波の黒井城へ侵攻を図る三好長慶・松永久秀らの策謀によるものか?、香良谷に入った三好軍に赤井/荻野一族を討つため芦田氏・足立氏らが集結していたところに直正に対する荻野・赤井両不満分子!?が合流・三つ巴のかたちなのか?。
          主郭北面切上にある天井石等石材残存の古墳
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合戦時に三好軍の参軍はない(間に合わなかったとされるが?)、赤井方にも三好氏に敵対する八上波多野・霧山城の西波多野?の救援…?には疑問もある!。今までのブログにも香良合戦に係る城砦群については、合戦場となった伊佐口・香良・絹山三地区については:それぞれにこのブログにも紹介してきた。
       主郭北東斜面に竪掘が二条落ちる!!
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合戦場へ北方から峠越えでの侵攻に対する防御の城砦については、城域背後に土塁を積む特異?な鴨内城と峠監視の井階山城砦群や、赤井方による南方からの侵攻ルートとして由良坂から北油良に入れば「勝坂」を越え絹山地区に至る。北油良城をベース基地として香良谷川を挟み南北に対峙する南側の絹山に前進基地(高谷砦や絹山北砦香良南砦)を築いたものか…。
      主郭から西北尾根上の切岸高い曲輪
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北油良公民館の南正面間近の丘陵尾根先に北由良城はあった。丘陵先端中央に平坦段(曲輪)があり三方に小曲輪が付属する砦遺構があり、尾根続きの上(東)方には切岸も5-7m以上と高い4っばかりの曲輪が並び、主郭の最上部には切岸西端に横穴式石室の封土が流失して葺石や袖石一部が露出する中型円墳が遺るが、 
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兵庫県遺跡分布地図には北油良古墳群の一つにも・古城跡としても未表記だ。北油良公民館の北東から山麓に向かう車道最奥民家が山主さん宅で突き当り祠からの山道すぐ右手上方へと竪掘を避けるように藪っぽいが高差も少ない主郭背後(東側)の土壇・堀切と曲輪(土壇・古墳か!?)を挟んだ空堀状に登り着く。
     尾根北西先端は三方に小曲輪・最下段に江戸中期以後の古墓地(個人墓?)がある
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主郭の東北斜面に3本の竪堀・西にも一本竪掘りが落ちるが、北面に高い切岸の曲輪を重ねる。南背後の尾根続きの防御は弱く伊佐口・香良では既に城砦を築き体勢を整える芦田・足立氏に対し、赤井方も北由良地区に前衛の陣城「北油良城」を築いたものか…。

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