タテガヘ城 Ⅱ (赤松貞範 / 城の用水伝承) 丹波市
慶雲2年(705)法道仙人創建を伝える五大山(旧:五台山)の山号を持つ白毫寺周辺の山々を、中国唐の霊場:五台山に見立てた”東壌(東条山)・五軸ヶ嶽・陥虎(タテガヘ城の出郭!?)・白砂・天神峰”がある。比叡山延暦寺の中興の祖でもある慈覚大師(円仁 794-864)が来錫し、此れらの山々を巡る・天台宗修法の回峰行が成されていたか?
赤松貞範の供養塔丹波志に「陥虎という嶮山あり、此の山に続き”タテガヘ”という城山の古跡あり…少し北に白砂という山あり」…と。「氷上郡志」にも背後の山に赤井氏の支城があった!!…と云うが旧氷上郡や県遺跡分布調査報告…等に城砦の記録を見ない山城探索にと、白毫寺背後の丘陵尾根を伝う”五台の径”のサブルートを辿り、山道に入る手前の赤松貞範の供養塔(県文化財指定)の側からスタート。
芝生広場(旧エルムいちじま?)からのメインルートに合流南北朝時代:赤松則村(円心)の二男貞範は建武2年(1335)箱根竹ノ下(足利尊氏と新田義貞の合戦)の戦功により尊氏から播磨国伊川庄や丹波国春日部荘等20余の所領を与えられた。建武4年には黒井城(砦)を築城、白毫寺は赤松貞範も帰依した一人だが応安7年(1374)69歳で死去している。貞治4年(1365)造立「赤松貞範の宝篋印塔」は自身の生前墓を造った?とも思えず、
大堀切北端土橋(登山ルートが城域の尾根筋を避けて通る)
観応2年(1351)に急死した兄範資の13回忌法要のものか?。幕府より家督を安堵されたのは二男の貞範ではなく弟の則祐…。春日部荘は5代にわたり当地を収めているので赤松家後継者の某?。境内山際を西に進むと薬師堂の裏手にある熊野神社(白毫寺の守護神として祀られている様だが!…)に出る。祭神:熊野権現は熊野本宮・速玉・那智の熊野三山権現が祀られる。
山道?と思えた主郭堀切南は白毫寺:陥虎!の絶壁を望む激急勾配の峡谷!!天正年間(1573-92)白毫寺背山では和歌山熊野の豪族:橋爪一族が銅鉱採掘に当たり、作業の安全祈願のため熊野三山から祭神を勧奨して此処に祀った。橋爪一族はタタラ(砂鉄・鉄鉱石等製錬)に従事し、白毫寺背山一帯にはタタラ跡や其の鉱滓(スラグ)が五大山方面に向かう西の谷筋に転がっているのを見掛けるよう…!?。
「陥虎!?」の絶壁上の出曲輪にも二重堀切がある橋爪一族は此の谷筋の(長者ヶ野?)に屋敷を構え、黒井城兵に必要な武器・武具用の製鉄品を生産していたよう…?。明智光秀の丹波「黒井城攻め」に天正7年落城した黒井城は、其の水の手を白毫寺山中ドウトコと云うところから埋樋により(ロート式とかサイフォン式!?)により水を引いていたと。原理は解るが千丈寺砦や西の丸までも距離や高さからも無理っぽい!?。光秀の陣城としても知られる多利の
主郭東端(大堀切上部南)の切岸(東西7-80mに及ぶ単郭の城)小富士山城に一夜城伝説があるが、春日町では山師として山中の水の手をよく知る橋爪一族の首領「藤乃」と云う老女から(明智光秀が”釣り人”として世間話から)聞き出したともされるが、水の手を止められ落城した。赤井の残党により黒井城用水の水源を教えた裏切り者として橋爪一族は此の地で処刑された。光秀が織田信長を討った本能寺の変・羽柴秀吉により山崎合戦に敗走する
禄老爾権現(市島町勅使)光秀が終焉を迎える伏見の小栗栖「明智藪」で討ち取ったのが橋爪一族だったと…其の後:橋爪一族の血筋・縁者の者が死を悼む供養塚が数ヶ所建立され、その一つが白毫寺境内熊野神社前の橋爪一族供養の宝篋印塔です。他にも橋爪一族の首長であった六次郎!?に因む禄老爾権現(ろくろうじ)が白毫寺への入口「勅使」に椋(ムク)の大樹の下に祀られて「美和ふるさと観光協会」の案内板も立つ。
藤乃院(市島町上竹田矢代)鉱山業に従事する山師の首領「ふじ乃」が市島町上竹田矢代【R175側に藤乃院の祠あり】に同様の伝承と熊野権現を祀り橋爪株の人々により供養されている。
さて:熊野神社の直ぐ西の尾根筋に出て獣除けフエンスを開閉して登山ルートに入り次回タテガヘ城 Ⅲ予定の「タテガヘ城」と険峰(陥虎)にある出曲輪を目指す。
橋爪一族の屋敷やタタラ跡が点在するのは此の谷筋か?
赤松貞範の供養塔丹波志に「陥虎という嶮山あり、此の山に続き”タテガヘ”という城山の古跡あり…少し北に白砂という山あり」…と。「氷上郡志」にも背後の山に赤井氏の支城があった!!…と云うが旧氷上郡や県遺跡分布調査報告…等に城砦の記録を見ない山城探索にと、白毫寺背後の丘陵尾根を伝う”五台の径”のサブルートを辿り、山道に入る手前の赤松貞範の供養塔(県文化財指定)の側からスタート。
芝生広場(旧エルムいちじま?)からのメインルートに合流南北朝時代:赤松則村(円心)の二男貞範は建武2年(1335)箱根竹ノ下(足利尊氏と新田義貞の合戦)の戦功により尊氏から播磨国伊川庄や丹波国春日部荘等20余の所領を与えられた。建武4年には黒井城(砦)を築城、白毫寺は赤松貞範も帰依した一人だが応安7年(1374)69歳で死去している。貞治4年(1365)造立「赤松貞範の宝篋印塔」は自身の生前墓を造った?とも思えず、
大堀切北端土橋(登山ルートが城域の尾根筋を避けて通る)
観応2年(1351)に急死した兄範資の13回忌法要のものか?。幕府より家督を安堵されたのは二男の貞範ではなく弟の則祐…。春日部荘は5代にわたり当地を収めているので赤松家後継者の某?。境内山際を西に進むと薬師堂の裏手にある熊野神社(白毫寺の守護神として祀られている様だが!…)に出る。祭神:熊野権現は熊野本宮・速玉・那智の熊野三山権現が祀られる。
山道?と思えた主郭堀切南は白毫寺:陥虎!の絶壁を望む激急勾配の峡谷!!天正年間(1573-92)白毫寺背山では和歌山熊野の豪族:橋爪一族が銅鉱採掘に当たり、作業の安全祈願のため熊野三山から祭神を勧奨して此処に祀った。橋爪一族はタタラ(砂鉄・鉄鉱石等製錬)に従事し、白毫寺背山一帯にはタタラ跡や其の鉱滓(スラグ)が五大山方面に向かう西の谷筋に転がっているのを見掛けるよう…!?。
「陥虎!?」の絶壁上の出曲輪にも二重堀切がある橋爪一族は此の谷筋の(長者ヶ野?)に屋敷を構え、黒井城兵に必要な武器・武具用の製鉄品を生産していたよう…?。明智光秀の丹波「黒井城攻め」に天正7年落城した黒井城は、其の水の手を白毫寺山中ドウトコと云うところから埋樋により(ロート式とかサイフォン式!?)により水を引いていたと。原理は解るが千丈寺砦や西の丸までも距離や高さからも無理っぽい!?。光秀の陣城としても知られる多利の
主郭東端(大堀切上部南)の切岸(東西7-80mに及ぶ単郭の城)小富士山城に一夜城伝説があるが、春日町では山師として山中の水の手をよく知る橋爪一族の首領「藤乃」と云う老女から(明智光秀が”釣り人”として世間話から)聞き出したともされるが、水の手を止められ落城した。赤井の残党により黒井城用水の水源を教えた裏切り者として橋爪一族は此の地で処刑された。光秀が織田信長を討った本能寺の変・羽柴秀吉により山崎合戦に敗走する
禄老爾権現(市島町勅使)光秀が終焉を迎える伏見の小栗栖「明智藪」で討ち取ったのが橋爪一族だったと…其の後:橋爪一族の血筋・縁者の者が死を悼む供養塚が数ヶ所建立され、その一つが白毫寺境内熊野神社前の橋爪一族供養の宝篋印塔です。他にも橋爪一族の首長であった六次郎!?に因む禄老爾権現(ろくろうじ)が白毫寺への入口「勅使」に椋(ムク)の大樹の下に祀られて「美和ふるさと観光協会」の案内板も立つ。
藤乃院(市島町上竹田矢代)鉱山業に従事する山師の首領「ふじ乃」が市島町上竹田矢代【R175側に藤乃院の祠あり】に同様の伝承と熊野権現を祀り橋爪株の人々により供養されている。
さて:熊野神社の直ぐ西の尾根筋に出て獣除けフエンスを開閉して登山ルートに入り次回タテガヘ城 Ⅲ予定の「タテガヘ城」と険峰(陥虎)にある出曲輪を目指す。
橋爪一族の屋敷やタタラ跡が点在するのは此の谷筋か?
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