別所館(別所吉治) 丹波市

由良荘の領主別所豊後守吉治は天正8年(1580)羽柴秀吉の飢餓作戦[干し殺し]に落城した三木城主:別所長治の末弟とも・子であるとも、また落城に際し落延び重宗の保護された…等々郷史や伝承もあるが、長治の叔父で秀吉家臣となり”鳥町村河原付城”守将で後:但馬八木城主ともなった重宗の子。重宗の後を継ぎ豊後守を名のり朝鮮出兵(1592)・慶長5年(1600)西軍に属し関ヶ原合戦前哨戦ともなった丹後田辺城攻撃に参加している。
 馬屋敷橋付近…別所館は最奥部の山際にあったのかな?
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𠮷治の叔母(三木城主長治の姉)で将軍秀忠(家康の三男)の乳母であったことで戦後:お家再興を願う乳母の功労を愛でて家康から所領を安堵され、吉治を許し北油良に館を建て・吉治(24歳)を此処に呼び寄せた。先日UPの北由良城(仮称)に向かった際の登り口「第二馬屋敷橋」に名残を留めるのが別所吉治の居館”屋形屋敷(別所館)”」があったところ。「丹波志」には”北油良の山側に別所邸と呼ばれる字名:屋形屋敷の広大な畑地・山裾に穴蔵・伯母(三木城主吉治の姉:おもんの方)の塚とされる古墳がある”…と。河川改修・圃場整備等で所在:現状等不明。
  第二馬屋敷橋:正面左端建物(公民館)南山手麓に北油良城がある
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慶長20年(1615)大阪の陣に戦功あり丹波国内(綾部陣屋別所館)に5000石を加増され2万石となったが寛永5年(1628)参勤を怠り・狩猟をしていたとして改易されている。旧豊臣系大名が疎ましく関ヶ原の戦後処理による外様大名の改易・減封や、徳川幕府による全国の金山や銀山を直轄領とする政策…からも、生野奉行の支配下で八木川流域にある近畿最大の中瀬金山の奉行(代官!?)を務めていた事により!?幕府が取り上げ天領とする意図があったとも…。
 第二馬屋敷橋の川向かいに段差のある方形棚田は家臣屋敷跡か?…  
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吉治は伯母の感化を受け領内の寺社に所領寄進し善政を施しても居る。霧山の南西山麓:市辺の二宮神社に意春の墓と経塚及び”加古川(佐治川)の氾濫による治水工事の十六丁畷(内堤防)も残るが、慶長19年・吉治の息女眼病平癒を祈願し倉崎城(仮称)の活眼不動尊に護摩堂や香良浅山不動尊に開眼堂を建ててもいる。       
 丹波志・丹波氷上郡志・丹波史「丹波史懇話会」を参照

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