滝山砦(仮称) 丹波市
JR柏原から春日町黒井方面へ殆どの車は稲継交差点を経由するR176多田バイパス道を利用される様だが?、柏原からJR石生駅前を春日町に向かう旧来からのR176号を走る。高谷川に架かる[水分れ橋]交差点傍には説明板や海に流れ出る最初の一滴:濫觴を表現したモニュメント‼?のある小公園。橋にも水を表わすカラー表示がなければ、小さな川(高谷川)に分水界と気付く人は殆どいない。
一番奥の民家右方に観音堂(向山連山登山口):二の山から滝山砦への稜線
日本一低い谷中分水界水分れはいそべ神社鳥居傍の高谷川を加古川へ…瀬戸内海へ、一方は黒井川が春日町へ…竹田川が由良川へ・日本海へ流れ出る[水分れ公園]は加古川水運等資料館・茶屋!もある高谷川沿い桜の名所・親水公園・向山連山登山口に鎮まるいそ部神社が石生(いそ)の名の起こりと云う。延喜式内「いそ部神社」は和銅3年(710)創建を伝え主祭神に奇日方命(クシヒカタノミコト)を祀るが、
二の山(滝山)山頂手前にある滝山古墳後に八幡宮が勧請される。社伝によると永禄年間(1558‐69)再建され、宝暦2年(1752)に改修されているが柏原八幡宮より歴史が古いと云う。石負(石生)荘は勅使田を持つ皇室領だが鎌倉幕府に没収・後に返還され室町初期頃まで皇室領だった様だが、戦乱期:在地国人に横領されたよう!で元亀2年(1571)の古文書には芦田?(赤井)源太兵衛直家が武運 長久…を祈願し自領:石負荘塚本の田を寄進した】と云う。
二の山(滝山)山頂いそ部神社から向かう向山連山(向山-珪石山)山腹には石生西河原城があり、芦田氏の領有地・芦田氏一族の山城であったと推測されているよう?だが、香良合戦(弘治元年 1555)に足立氏・芦田氏の多くは赤井・荻野氏傘下に与している。氷上町北部の沼・香良や青垣町を本願地とする足立・芦田氏の所領地は香良合戦に敗れ、氷上郡内を総括する黒井城(赤井・荻野氏)幕下にあって、
滝山砦:第三曲輪…芦田氏領とも思えない此の所領地?を安堵されていたかは不詳。三木の別所重宗の子:別所豊後守吉治が家督を継ぎ(天正19年1591…慶長20年1615には大坂の陣の戦功に綾部等に5000石加増されている)氷上由良荘の領主として入封しており、神仏への崇敬から所領の寄進等善政を施し、「軍神」を奉る(八幡神社)いそ部神社にも燈明田(一石)を寄進している。石生西河原城が芦田氏の城であったか?とするより、
滝山砦:第三から第二曲輪へ
縄張りの特異性からは黒井盆地の南入り口に近く、天正3年明智の一次黒井城攻めに柏原八幡城からは少し遠いが妻木主計助範資が居て兵の駐屯地・出陣準備をしていた石負砦が此処!!と思われ四ノ山砦も見張・監視に利用されたのかも?。滝山砦は向山連山二の山(滝山 4等三角点298m)から登山道を外れて西尾根に下る。
第二曲輪から土橋付空堀状を第一曲輪(主郭!?)に細長い流れ尾の平坦地形先端部240mに滝山砦(仮称)がある。石生西河原城を領内監視の国人領主の城とするには村から外れ・しかも周囲を山に囲まれた擂鉢状の中腹部では眺望も余り効かず、城域最下部の分水界展望台からも高谷川沿いに横田城・母坪城の山陰を望む程度!!だが滝山砦(仮称)からなら「石生西河原城」(水分れ公園)西面の死角となる領内?JR石生駅周辺をカバー。
通行監視は勿論R175・R176号が春日町側へ抜ける城山トンネル・北近畿自動車道が抜ける大崎横田トンネルが春日町歌道谷(うとうだに)トンネル間を黒井川が流れる春日黒井盆地の南入口。東西300m程の山間の極幅狭い場所だけに攻守共に要所は激戦地ともなった筈!!…をも監視できる位置にある。
三ノ山470m西北尾根の見張所?ともに黒井城側の監視所としては絶妙の地。四ノ山城は朝日城背山にあり黒井城を北東正面に見て、南には清水山を通して南山麓には柏原八幡城がある。石生西河原城の西手前R175の南多田にも明智方駐屯基地のような?浄福寺砦(仮称)がある。横田城を明智方陣城とみるのは一次黒井城攻め以後…?か。妻木主計助範資の石負砦は此処:石生西河原城のことと推測する。
第一(主)曲輪切岸下の虎口受け曲輪?から主郭側竪土塁線沿い片堀切!? 水分れ公園第一駐車場から向山連山登山口の観音堂取付点に向かう正面丘陵上に二ノ山を見て、其の西方へ流れ出る尾根上の長い平坦地形(第三曲輪)の藪地を抜けると第二曲輪があり、土橋付き空堀を入る第一曲輪(主郭!?)の西端には切岸高低差を高くする竪土塁と土塁線沿いに片堀切を落とす。第一曲輪切岸下の小曲輪は虎口受け曲輪か?。氷上町北野の熊野神社付近の谷筋からが城趾への近道かも…?

一番奥の民家右方に観音堂(向山連山登山口):二の山から滝山砦への稜線
日本一低い谷中分水界水分れはいそべ神社鳥居傍の高谷川を加古川へ…瀬戸内海へ、一方は黒井川が春日町へ…竹田川が由良川へ・日本海へ流れ出る[水分れ公園]は加古川水運等資料館・茶屋!もある高谷川沿い桜の名所・親水公園・向山連山登山口に鎮まるいそ部神社が石生(いそ)の名の起こりと云う。延喜式内「いそ部神社」は和銅3年(710)創建を伝え主祭神に奇日方命(クシヒカタノミコト)を祀るが、
二の山(滝山)山頂手前にある滝山古墳後に八幡宮が勧請される。社伝によると永禄年間(1558‐69)再建され、宝暦2年(1752)に改修されているが柏原八幡宮より歴史が古いと云う。石負(石生)荘は勅使田を持つ皇室領だが鎌倉幕府に没収・後に返還され室町初期頃まで皇室領だった様だが、戦乱期:在地国人に横領されたよう!で元亀2年(1571)の古文書には芦田?(赤井)源太兵衛直家が武運 長久…を祈願し自領:石負荘塚本の田を寄進した】と云う。
二の山(滝山)山頂いそ部神社から向かう向山連山(向山-珪石山)山腹には石生西河原城があり、芦田氏の領有地・芦田氏一族の山城であったと推測されているよう?だが、香良合戦(弘治元年 1555)に足立氏・芦田氏の多くは赤井・荻野氏傘下に与している。氷上町北部の沼・香良や青垣町を本願地とする足立・芦田氏の所領地は香良合戦に敗れ、氷上郡内を総括する黒井城(赤井・荻野氏)幕下にあって、
滝山砦:第三曲輪…芦田氏領とも思えない此の所領地?を安堵されていたかは不詳。三木の別所重宗の子:別所豊後守吉治が家督を継ぎ(天正19年1591…慶長20年1615には大坂の陣の戦功に綾部等に5000石加増されている)氷上由良荘の領主として入封しており、神仏への崇敬から所領の寄進等善政を施し、「軍神」を奉る(八幡神社)いそ部神社にも燈明田(一石)を寄進している。石生西河原城が芦田氏の城であったか?とするより、
滝山砦:第三から第二曲輪へ
縄張りの特異性からは黒井盆地の南入り口に近く、天正3年明智の一次黒井城攻めに柏原八幡城からは少し遠いが妻木主計助範資が居て兵の駐屯地・出陣準備をしていた石負砦が此処!!と思われ四ノ山砦も見張・監視に利用されたのかも?。滝山砦は向山連山二の山(滝山 4等三角点298m)から登山道を外れて西尾根に下る。
第二曲輪から土橋付空堀状を第一曲輪(主郭!?)に細長い流れ尾の平坦地形先端部240mに滝山砦(仮称)がある。石生西河原城を領内監視の国人領主の城とするには村から外れ・しかも周囲を山に囲まれた擂鉢状の中腹部では眺望も余り効かず、城域最下部の分水界展望台からも高谷川沿いに横田城・母坪城の山陰を望む程度!!だが滝山砦(仮称)からなら「石生西河原城」(水分れ公園)西面の死角となる領内?JR石生駅周辺をカバー。
通行監視は勿論R175・R176号が春日町側へ抜ける城山トンネル・北近畿自動車道が抜ける大崎横田トンネルが春日町歌道谷(うとうだに)トンネル間を黒井川が流れる春日黒井盆地の南入口。東西300m程の山間の極幅狭い場所だけに攻守共に要所は激戦地ともなった筈!!…をも監視できる位置にある。
三ノ山470m西北尾根の見張所?ともに黒井城側の監視所としては絶妙の地。四ノ山城は朝日城背山にあり黒井城を北東正面に見て、南には清水山を通して南山麓には柏原八幡城がある。石生西河原城の西手前R175の南多田にも明智方駐屯基地のような?浄福寺砦(仮称)がある。横田城を明智方陣城とみるのは一次黒井城攻め以後…?か。妻木主計助範資の石負砦は此処:石生西河原城のことと推測する。
第一(主)曲輪切岸下の虎口受け曲輪?から主郭側竪土塁線沿い片堀切!? 水分れ公園第一駐車場から向山連山登山口の観音堂取付点に向かう正面丘陵上に二ノ山を見て、其の西方へ流れ出る尾根上の長い平坦地形(第三曲輪)の藪地を抜けると第二曲輪があり、土橋付き空堀を入る第一曲輪(主郭!?)の西端には切岸高低差を高くする竪土塁と土塁線沿いに片堀切を落とす。第一曲輪切岸下の小曲輪は虎口受け曲輪か?。氷上町北野の熊野神社付近の谷筋からが城趾への近道かも…?
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