矢代城砦群Ⅳ 大野城 篠山市
県道97号(丹南・三和線)宮田交差点で県道140号線に入り東に約1.5kmで「ユニトピアささやま」への入口にサインボードを見る。左折して北方の「ユニトピアささやま」側へ5-80mばかり・比高僅か35m程の独立したほぼ台形の低丘陵がある。尾根上には古墳の墳丘を思わせるマウンド状の台地があり、車道沿いの城域南西に春日神社・北西側に大栄神社(大歳神社)が祀られています。
此の丘陵の神社境内を含めた杜の一帯が大野城で大歳神社の東上辺りが北端の最高所で、其処から南の春日神社の上の辺りまで段々に造成された曲輪群が延び、南端にはL字状に曲輪を囲む土塁が遺る。西面の堀切外の櫓台状は古墳:其の下方に春日神社がある。南下への尾根通しにもL字状土塁下にも山道?の判別が難しい堀状の溝がある。
春日社背後:古墳丘と本丸前の曲輪間堀切
四方を堀切・切岸・北方からの幅狭く長い尾根通し曲輪の末端部は、同様に東西左右の一段下部を2-3段を帯曲輪が並ぶ終端部だが、警護面からも最重要箇所だけに本の丸(主曲輪)は此処:しかも東斜面下に稲荷社を祀る広い平場があるが、其の下方には更に広い平坦地形が大野館とも呼べる居館跡であったかと思わせる。直ぐ下間近には城域東面を南北に流れる矢代川が深い壕となっている。
主曲輪の西堀切側と尾根続き南面切岸沿いL字型土塁線
主曲輪から南の堀切状先の曲輪も古墳マウンドで・浅い堀状からも三っばかりの曲輪(古墳マウンド)があり、麓には東西の民家間を繋ぐような藪のなかの堀底道が通じている。主曲輪から北橋まで延びる主尾根筋の長い曲輪に沿い殊に東斜面2-3段の帯曲輪が北端から西へ回り込む付近、傾斜は緩やかになるが上り土塁から主尾根筋曲輪に入るよう(遺構判別は地形の荒廃で判別難しい!?)。
主:帯曲輪東面下の稲荷社(矢代谷川間に居館跡らしい平坦地あり)此の大野城跡より北へ凡そ200m程・山麓に建つ数軒の民家を包み込むように低丘陵が周囲を囲っているような丘陵部が見える。此の数軒の民家が国松館跡・背後の丘陵上部に国松館の詰め城:矢代城(上記レポートを参照)がある。大野城の丘陵東裾を濠状の溝(矢代川)が廻り北末端は貯水池になっており、八幡神社が山頂に祀られ参道入口の石鳥居側に目立つ樫の大木があり町木に指定されている。
大歳神社(西面)上の帯曲輪(2-3段)天正~文禄((1573-96)年間頃:当地の西谷・矢代・大野・口坂本の豪族:宇治谷右衛門が崇敬する社を此処に勧請して創設したといわれ…嘉永7年(1854)本殿を改築して明治6年(1873)村社に列せられているが、守護神と思える八幡社を祀る宇治氏の存在は不詳で大野城の城史も不明。矢代城からの西南尾根先に位置する国松館とも目と鼻の先です。
稲荷社上部(東面)の帯曲輪大野城の丹波八上城:波多野氏攻めの天正6~7年頃の相関関係は?八上城主波多野氏や丹波国攻略の明智軍との関わりも気になるところです…が南矢代城の酒井党の酒井氏治の重臣だった国松対馬から天正6年の落城まで続いた国松氏の矢代城前衛の城砦と思われる。
城域北端:上り土塁?:上部帯曲輪の端からも尾根上主郭へ土塁が繋ぐ大野城は矢代城(国松城)の城砦群の縄張り同様・幅狭く細長い尾根上の曲輪に付随する帯曲輪の形態や構成が似ている。尤も近隣の遊谷城…等々も同じだが!!、八上城包囲の明智光秀軍の矢上城攻略時には大野城も向城ともなり、共に八上落城の前年には落城している。

此の丘陵の神社境内を含めた杜の一帯が大野城で大歳神社の東上辺りが北端の最高所で、其処から南の春日神社の上の辺りまで段々に造成された曲輪群が延び、南端にはL字状に曲輪を囲む土塁が遺る。西面の堀切外の櫓台状は古墳:其の下方に春日神社がある。南下への尾根通しにもL字状土塁下にも山道?の判別が難しい堀状の溝がある。
春日社背後:古墳丘と本丸前の曲輪間堀切
四方を堀切・切岸・北方からの幅狭く長い尾根通し曲輪の末端部は、同様に東西左右の一段下部を2-3段を帯曲輪が並ぶ終端部だが、警護面からも最重要箇所だけに本の丸(主曲輪)は此処:しかも東斜面下に稲荷社を祀る広い平場があるが、其の下方には更に広い平坦地形が大野館とも呼べる居館跡であったかと思わせる。直ぐ下間近には城域東面を南北に流れる矢代川が深い壕となっている。
主曲輪の西堀切側と尾根続き南面切岸沿いL字型土塁線
主曲輪から南の堀切状先の曲輪も古墳マウンドで・浅い堀状からも三っばかりの曲輪(古墳マウンド)があり、麓には東西の民家間を繋ぐような藪のなかの堀底道が通じている。主曲輪から北橋まで延びる主尾根筋の長い曲輪に沿い殊に東斜面2-3段の帯曲輪が北端から西へ回り込む付近、傾斜は緩やかになるが上り土塁から主尾根筋曲輪に入るよう(遺構判別は地形の荒廃で判別難しい!?)。
主:帯曲輪東面下の稲荷社(矢代谷川間に居館跡らしい平坦地あり)此の大野城跡より北へ凡そ200m程・山麓に建つ数軒の民家を包み込むように低丘陵が周囲を囲っているような丘陵部が見える。此の数軒の民家が国松館跡・背後の丘陵上部に国松館の詰め城:矢代城(上記レポートを参照)がある。大野城の丘陵東裾を濠状の溝(矢代川)が廻り北末端は貯水池になっており、八幡神社が山頂に祀られ参道入口の石鳥居側に目立つ樫の大木があり町木に指定されている。
大歳神社(西面)上の帯曲輪(2-3段)天正~文禄((1573-96)年間頃:当地の西谷・矢代・大野・口坂本の豪族:宇治谷右衛門が崇敬する社を此処に勧請して創設したといわれ…嘉永7年(1854)本殿を改築して明治6年(1873)村社に列せられているが、守護神と思える八幡社を祀る宇治氏の存在は不詳で大野城の城史も不明。矢代城からの西南尾根先に位置する国松館とも目と鼻の先です。
稲荷社上部(東面)の帯曲輪大野城の丹波八上城:波多野氏攻めの天正6~7年頃の相関関係は?八上城主波多野氏や丹波国攻略の明智軍との関わりも気になるところです…が南矢代城の酒井党の酒井氏治の重臣だった国松対馬から天正6年の落城まで続いた国松氏の矢代城前衛の城砦と思われる。
城域北端:上り土塁?:上部帯曲輪の端からも尾根上主郭へ土塁が繋ぐ大野城は矢代城(国松城)の城砦群の縄張り同様・幅狭く細長い尾根上の曲輪に付随する帯曲輪の形態や構成が似ている。尤も近隣の遊谷城…等々も同じだが!!、八上城包囲の明智光秀軍の矢上城攻略時には大野城も向城ともなり、共に八上落城の前年には落城している。
この記事へのコメント
以前ご一緒に城跡探訪を致しました。
猪名川町のイッシーです。
福知山市の高畑にある高畑城跡に探訪してきました。
福知山市長田野工業団地にあります三協化成様の左手の山に高畑城跡がありました。
麓付近には土塁と空堀、山上には郭、切岸、片堀切地形などありました。
また一度探訪してみて下さい。
随分と以前より 貴ブログが閉ざされているようで連絡も出来ませんでしたが
年間100城訪城の祈願は 着実に達成されていることと思います…!!?
キャッスリング関連記事では お気付きでしょうか?
此処数年 丹波市・篠山市に新発見の城廻り高槻の T氏と続けていますよ。