矢代城砦群Ⅱ 坪ノ内城 篠山市
矢代城(国松城)を詰め城とする国松館を囲い込むように東西に先端部が落と丘陵部に残る城砦遺構を、当HP内レポートでは国松居館の”西の砦・東の砦”として記してきた…が、其の東の砦の更に東隣にも「平志城」の存在を知った。先の国松館を挟む二つの砦は尾根上東西に延びる矢代城西郭部に至るが、
坪ノ内城(東郭):T字道路の取付点まで落ちる竪堀!東の砦の更に東の丘陵先端部にも外郭の”平志城”の存在を確認した。此の「平志城」は矢代城主郭から南へ延びる尾根先に位置して、矢代城南郭部から主郭に入る。平志城の存在と「国松居館」(敷地内は国松家後裔の方の一般住宅地)なので、五輪塔群や地神を祀る祠等はあるが居館遺構はないので避ける。
竪堀上から城域北端まで延びる犬走り(?通路)大野城北先端の貯水池と国松館の間を矢代川が東西に流れ、居館を囲む丘陵左右の砦、背後の矢代城の姿を望む城砦群情況を垣間見ることで納得できるかも…!!?。国松居館を囲い込む様な両サイドの丘陵上の城館遺構を所在地の名をとって「坪ノ内城」として纏めてみることにした。
二曲輪を繋ぐ土橋付き空堀HPのレポート内容は旧”東の砦”を後日追加修正・加筆して再レポート。”西ノ砦”は次回:矢代城(本城)への訪城時にでも…見残し?の遺構を含めてレポートの予定だが、国松氏の城砦はブログ初見参!?なので紹介を兼ねUPした。再訪城の都度・見残しや新発見はあるものです!! 。急な斜面取付点の直ぐ脇が竪堀であったり、
国松館まで落ちる竪堀(堀底道?)と谷側(右手)の竪土塁!?・左は東郭主曲輪藪で見づらく画像添付出来ないが東斜面に犬走り状の細い棚・帯曲輪が附帯して城域北へと長く延びている。幅狭い尾根筋曲輪段をカバーするような縄張りは、隣接の「平志城」や矢代入口の「大野城」にも共通している…矢代城の城史・土豪国松氏について詳細は不知だが、南矢代城主:酒井氏治の重臣国松對島が居城し天正6年(1578)落城したと伝える。
城域北曲輪(主郭?から櫓台土壇?・土塁は竪土塁となり竪堀!に繋ぐ!!酒井党の多紀郡(現:篠山市)来住は、淀山城の波々伯部氏・大山城の中沢氏等ともに八上:波多野氏より以前に来住していた在地豪族だ。三好氏・内藤氏に多紀を追われていた波多野氏が領地・八上城を奪還した頃には酒井党も波多野氏配下に復帰!?・国松氏等も波多野氏の麾下に属したものか。
(国松館)
35.09339,135.19109
坪ノ内城(東郭):T字道路の取付点まで落ちる竪堀!東の砦の更に東の丘陵先端部にも外郭の”平志城”の存在を確認した。此の「平志城」は矢代城主郭から南へ延びる尾根先に位置して、矢代城南郭部から主郭に入る。平志城の存在と「国松居館」(敷地内は国松家後裔の方の一般住宅地)なので、五輪塔群や地神を祀る祠等はあるが居館遺構はないので避ける。
竪堀上から城域北端まで延びる犬走り(?通路)大野城北先端の貯水池と国松館の間を矢代川が東西に流れ、居館を囲む丘陵左右の砦、背後の矢代城の姿を望む城砦群情況を垣間見ることで納得できるかも…!!?。国松居館を囲い込む様な両サイドの丘陵上の城館遺構を所在地の名をとって「坪ノ内城」として纏めてみることにした。
二曲輪を繋ぐ土橋付き空堀HPのレポート内容は旧”東の砦”を後日追加修正・加筆して再レポート。”西ノ砦”は次回:矢代城(本城)への訪城時にでも…見残し?の遺構を含めてレポートの予定だが、国松氏の城砦はブログ初見参!?なので紹介を兼ねUPした。再訪城の都度・見残しや新発見はあるものです!! 。急な斜面取付点の直ぐ脇が竪堀であったり、
国松館まで落ちる竪堀(堀底道?)と谷側(右手)の竪土塁!?・左は東郭主曲輪藪で見づらく画像添付出来ないが東斜面に犬走り状の細い棚・帯曲輪が附帯して城域北へと長く延びている。幅狭い尾根筋曲輪段をカバーするような縄張りは、隣接の「平志城」や矢代入口の「大野城」にも共通している…矢代城の城史・土豪国松氏について詳細は不知だが、南矢代城主:酒井氏治の重臣国松對島が居城し天正6年(1578)落城したと伝える。
城域北曲輪(主郭?から櫓台土壇?・土塁は竪土塁となり竪堀!に繋ぐ!!酒井党の多紀郡(現:篠山市)来住は、淀山城の波々伯部氏・大山城の中沢氏等ともに八上:波多野氏より以前に来住していた在地豪族だ。三好氏・内藤氏に多紀を追われていた波多野氏が領地・八上城を奪還した頃には酒井党も波多野氏配下に復帰!?・国松氏等も波多野氏の麾下に属したものか。
(国松館)
35.09339,135.19109
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