水生城 Ⅰ(長楽寺と城域) 豊岡市日高町
嘗て但馬国府が置かれ国分寺が建てられた但馬の政治の中心地に近い宵田城・国分寺城の城下を抜けて、水生城へはR312号からJR山陰本線国府駅を目指す。駅前付近からは其の北方に高低差を感じさせない緩やかな低丘陵が東西に延びている。此処へは北近畿豊岡自動車道(R483)を利用して日高神鍋高原IC辺まで利用するが、
長楽寺山門今まで(自動車道完成以前)はR132号を円山川沿いに走ってJR国府に向かい、上石地区で八代川を渡った山麓の狭い地区道を登山口となる水生山長楽寺(高野山真言宗)を目指す。以前:水生城・竹貫城を訪れたときは墓参用駐車場から薬師堂(本堂)への長い階段道をのぼったが”段々あがりの長楽寺”さんと親しまれるお寺さん。
長楽寺林道終点から円山川を望む本尊へのお詣りではないので(-_-;)今回は本堂上方にある駐車スペースまで長楽寺林道を利用させてもらったので10-15分くらいは時間が稼げたかも…?。“水生山長楽寺”は奈良時代当初の和銅6年(713)行基菩薩により開創され、継いで平安時代:弘法大師の弟子・真如親王巡錫の折り当山に留まり以来、真言護国の道場となった(高野山真言宗)の古刹。
JR国府駅ホーム架下から望む竹貫城-水生城への丘陵山号を水生山と称し山麓に汲めども尽きぬ清泉ありこれに因んで名付けられたという。嘗て隆盛を極め寺は大いに栄え一時は十二坊舎があった。天正8年(1580)4月:羽柴秀長の但馬侵攻に水生城は落城・寺もまた荒廃していたが、江戸時代の正徳年間(1711-16)徐々に諸堂は整備され、享保5年(1720)庫裡が再建され、山門(仁王門)は宝暦6年(1756)・寛政3年(1791)には本堂(薬師堂)が再建されている。
水生城主郭の石積本堂は江戸中期の絢爛たる文化の所産で精緻を極め、本尊薬師如来は行基手ずから彫ったものとされる秘仏で古来霊験あらたかなことで知られている。境内には五百年余を経た県指定(昭和53年3月17日)天然記念物「長楽寺のチリツバキ」があったが枯れ死したため(2021年3月)伐採されてしまった。
水生城Ⅱ郭の三重堀切水尾城は此の長楽寺背後の丘陵部中腹に居館を置き、東西に延びる主尾根筋に3郭?(丘陵部西端の竹貫(たかぬき)城が県の遺跡地図によると”水生城址西群”となっているので4郭となっているのかも?)の郭群を配置しているとされる…?。県遺跡地図の”水生城址西群”は天正6年(1578)4月:羽柴秀長(秀吉の異父弟)による第二次但馬攻めの水生城合戦の際:秀長方の
水生城Ⅲ郭の土塁向城として使用された?とも推察されるので、郭と郭間を近接しながら堀切を設けず曲輪が連続する主郭からⅢ郭までを水生城。二重の大堀切で断ち・長い土橋状の尾根が続く西面の先に現れる、水生城とは異なる縄張りに城郭部を水生城址西群としてではなく・独立した竹貫城として区分する。【次回の水生城 Ⅱに続く】

長楽寺山門今まで(自動車道完成以前)はR132号を円山川沿いに走ってJR国府に向かい、上石地区で八代川を渡った山麓の狭い地区道を登山口となる水生山長楽寺(高野山真言宗)を目指す。以前:水生城・竹貫城を訪れたときは墓参用駐車場から薬師堂(本堂)への長い階段道をのぼったが”段々あがりの長楽寺”さんと親しまれるお寺さん。
長楽寺林道終点から円山川を望む本尊へのお詣りではないので(-_-;)今回は本堂上方にある駐車スペースまで長楽寺林道を利用させてもらったので10-15分くらいは時間が稼げたかも…?。“水生山長楽寺”は奈良時代当初の和銅6年(713)行基菩薩により開創され、継いで平安時代:弘法大師の弟子・真如親王巡錫の折り当山に留まり以来、真言護国の道場となった(高野山真言宗)の古刹。
JR国府駅ホーム架下から望む竹貫城-水生城への丘陵山号を水生山と称し山麓に汲めども尽きぬ清泉ありこれに因んで名付けられたという。嘗て隆盛を極め寺は大いに栄え一時は十二坊舎があった。天正8年(1580)4月:羽柴秀長の但馬侵攻に水生城は落城・寺もまた荒廃していたが、江戸時代の正徳年間(1711-16)徐々に諸堂は整備され、享保5年(1720)庫裡が再建され、山門(仁王門)は宝暦6年(1756)・寛政3年(1791)には本堂(薬師堂)が再建されている。
水生城主郭の石積本堂は江戸中期の絢爛たる文化の所産で精緻を極め、本尊薬師如来は行基手ずから彫ったものとされる秘仏で古来霊験あらたかなことで知られている。境内には五百年余を経た県指定(昭和53年3月17日)天然記念物「長楽寺のチリツバキ」があったが枯れ死したため(2021年3月)伐採されてしまった。
水生城Ⅱ郭の三重堀切水尾城は此の長楽寺背後の丘陵部中腹に居館を置き、東西に延びる主尾根筋に3郭?(丘陵部西端の竹貫(たかぬき)城が県の遺跡地図によると”水生城址西群”となっているので4郭となっているのかも?)の郭群を配置しているとされる…?。県遺跡地図の”水生城址西群”は天正6年(1578)4月:羽柴秀長(秀吉の異父弟)による第二次但馬攻めの水生城合戦の際:秀長方の
水生城Ⅲ郭の土塁向城として使用された?とも推察されるので、郭と郭間を近接しながら堀切を設けず曲輪が連続する主郭からⅢ郭までを水生城。二重の大堀切で断ち・長い土橋状の尾根が続く西面の先に現れる、水生城とは異なる縄張りに城郭部を水生城址西群としてではなく・独立した竹貫城として区分する。【次回の水生城 Ⅱに続く】
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