水生城 Ⅱ(幻のⅣ郭曲輪群) 豊岡市日高町
水生城は一般的?には主郭(Ⅰ郭)から東尾根筋に設けられたⅢ郭で構成されているとされるが、思わぬ広範囲に拡がる大規模城砦群であることを”水生城 Ⅰ”において少し触れてみたが:Web上では未だ報告を見ない?ので此処に少し追記してみた。後日:遺構調査・殊に城郭研究専門家による調査研究発表を待ち見解が知りたいところです。とは云え派生する枝尾根筋や東への主尾根続きに展開する
三重堀切のあるⅡ郭曲輪群の縄張り遺構は主郭群に比べても随分と異なるのは、南北朝期から続く城趾の長い歴史の中で幾度か繰り返されている水生城合戦だけに其の時代時代における敵対勢力・主戦場や其処に至る侵攻ルート等…目的や戦術の違いにより城砦遺構の位置・移動や戦いの規模も変わる。水生城を紹介する一般的な!?城域は東西約650m・南北約130m:三角点標石が埋まる水尾山(160m)に主郭(Ⅰ郭)を置き、
Ⅲ郭:土塁曲輪北尾根側袖曲輪左端に竪堀が落ちる尾根幅の狭い東主尾根筋に三重堀切を設けるⅡ郭・西端に土塁を築く物見櫓?のⅢ郭構成で築かれているが、Ⅰ郭(主郭)からⅡ郭やⅢ郭への郭から郭への間に堀切はなく・小曲輪群が数珠繋ぎ状態で並ぶ…?。だが大規模城郭の縄張りは城域をⅣ郭へ曲輪群を繋いで、更に東尾根先端部が八代川に落ち込む所にまで延びていく。尚:主郭(Ⅰ郭)から西へは大堀切で尾根を遮断するが、
幻の!? 東尾根Ⅳ郭北枝尾根上曲輪土塁土橋状の幅狭い尾根筋が長く続き、少し距離を置いて位置する「水生城西郭部」(竹貫城)を此処では(羽柴秀吉方但馬攻めの際:水生城向城ともなったと推測されているので)別城とします。さてⅡ郭から北方の枝尾根・Ⅲ郭からも土塁曲輪下を回り込んで竪堀を越えた北尾根筋に小曲輪群が点在する。此の状態は東主尾根続きのⅣ郭も同じで八代川に落ちる2箇所ばかり南斜面に極小曲輪群(南北朝期の砦遺構か?)が点在する。
幻の!? 東尾根:古墳群のなかのⅤ郭前方後円墳!!は近世の祠壇や社跡コンクリート片が残る県遺跡地図・埋蔵文化財の遺跡一覧表にはⅡ郭-Ⅲ郭に歩危1-4号墳がある。Ⅳ郭北方に延びる幅広い尾根には曲輪を空堀・片堀切・堀切で区分する大きめの三曲輪が残るが、更にⅣ郭の東7-80m先へは20m程下堀切状?もあるが、一帯に点在する夥しい古墳数凡そ100基を数える「ホーキ古墳群」を取込む。Ⅳ郭群よりは此処をⅤ郭としたい!?。
V郭内の最大古墳:裾に葺石片が遺る尾根幅も広くなる城域150m程の曲輪群が続き一基は前方後円墳。径20m前後の中規模古墳を取り込み墳頂部を曲輪にしたもの…広い墳頂部には近場に無い溶岩石を土留石列に並べた近世の祭祀壇や、祠跡らしいコンクリート片・西端に石室への羨道部?や古墳裾部には葺石らしい石片も残存。以前:三田市の古墳にブログで中傷紛いの投稿を受けサイトを閉鎖した経緯から詳細は割愛する。
東尾根最先端に大きな二段曲輪があり、曲輪の下方6-70m集落入口に祠あり前方後円墳頂部を主曲輪?とする幅広い縄張り範囲の城域だが周辺の東西斜面下部は竹林跡?や其の土取や削平で破壊されている為、平場の点在も曲輪であった可能性が窺われるが未だ未だ城郭知識は浅く遺構を無視する。此より古墳群丘陵部から最東末端に掛けて下降する最先端部:中規模古墳の墳頂曲輪下にも20x20m・20x15mの広い二段曲輪があり、
東尾根最先端曲輪下:上佐野集落入口の祠と右手は山陰線沿い雷神社・九日市上町方面上の曲輪一角には祠・堂跡らしい壇と瓦片をみる。下段曲輪端の斜面下6-70mの集落入口には祠が建つ。目前の県道50号はJR山陰線踏切・「上佐野」交差点間で、共に約4-50mの距離。再び長楽寺背後の水生城Ⅲ郭~主郭に戻り「水生城 Ⅲ(水生城合戦:主郭から竹貫城)」に向かう。
水生城城域南麓を流れる八代川注 水生城西郭部を指すⅣ郭(現?:竹貫城)ではなく東尾根上Ⅲ郭に継ぐ曲輪群
水生城Ⅰ~Ⅲ郭より東尾根筋の曲輪群:位置は幻の!?Ⅳ郭付近…!?
三重堀切のあるⅡ郭曲輪群の縄張り遺構は主郭群に比べても随分と異なるのは、南北朝期から続く城趾の長い歴史の中で幾度か繰り返されている水生城合戦だけに其の時代時代における敵対勢力・主戦場や其処に至る侵攻ルート等…目的や戦術の違いにより城砦遺構の位置・移動や戦いの規模も変わる。水生城を紹介する一般的な!?城域は東西約650m・南北約130m:三角点標石が埋まる水尾山(160m)に主郭(Ⅰ郭)を置き、
Ⅲ郭:土塁曲輪北尾根側袖曲輪左端に竪堀が落ちる尾根幅の狭い東主尾根筋に三重堀切を設けるⅡ郭・西端に土塁を築く物見櫓?のⅢ郭構成で築かれているが、Ⅰ郭(主郭)からⅡ郭やⅢ郭への郭から郭への間に堀切はなく・小曲輪群が数珠繋ぎ状態で並ぶ…?。だが大規模城郭の縄張りは城域をⅣ郭へ曲輪群を繋いで、更に東尾根先端部が八代川に落ち込む所にまで延びていく。尚:主郭(Ⅰ郭)から西へは大堀切で尾根を遮断するが、
幻の!? 東尾根Ⅳ郭北枝尾根上曲輪土塁土橋状の幅狭い尾根筋が長く続き、少し距離を置いて位置する「水生城西郭部」(竹貫城)を此処では(羽柴秀吉方但馬攻めの際:水生城向城ともなったと推測されているので)別城とします。さてⅡ郭から北方の枝尾根・Ⅲ郭からも土塁曲輪下を回り込んで竪堀を越えた北尾根筋に小曲輪群が点在する。此の状態は東主尾根続きのⅣ郭も同じで八代川に落ちる2箇所ばかり南斜面に極小曲輪群(南北朝期の砦遺構か?)が点在する。
幻の!? 東尾根:古墳群のなかのⅤ郭前方後円墳!!は近世の祠壇や社跡コンクリート片が残る県遺跡地図・埋蔵文化財の遺跡一覧表にはⅡ郭-Ⅲ郭に歩危1-4号墳がある。Ⅳ郭北方に延びる幅広い尾根には曲輪を空堀・片堀切・堀切で区分する大きめの三曲輪が残るが、更にⅣ郭の東7-80m先へは20m程下堀切状?もあるが、一帯に点在する夥しい古墳数凡そ100基を数える「ホーキ古墳群」を取込む。Ⅳ郭群よりは此処をⅤ郭としたい!?。
V郭内の最大古墳:裾に葺石片が遺る尾根幅も広くなる城域150m程の曲輪群が続き一基は前方後円墳。径20m前後の中規模古墳を取り込み墳頂部を曲輪にしたもの…広い墳頂部には近場に無い溶岩石を土留石列に並べた近世の祭祀壇や、祠跡らしいコンクリート片・西端に石室への羨道部?や古墳裾部には葺石らしい石片も残存。以前:三田市の古墳にブログで中傷紛いの投稿を受けサイトを閉鎖した経緯から詳細は割愛する。
東尾根最先端に大きな二段曲輪があり、曲輪の下方6-70m集落入口に祠あり前方後円墳頂部を主曲輪?とする幅広い縄張り範囲の城域だが周辺の東西斜面下部は竹林跡?や其の土取や削平で破壊されている為、平場の点在も曲輪であった可能性が窺われるが未だ未だ城郭知識は浅く遺構を無視する。此より古墳群丘陵部から最東末端に掛けて下降する最先端部:中規模古墳の墳頂曲輪下にも20x20m・20x15mの広い二段曲輪があり、
東尾根最先端曲輪下:上佐野集落入口の祠と右手は山陰線沿い雷神社・九日市上町方面上の曲輪一角には祠・堂跡らしい壇と瓦片をみる。下段曲輪端の斜面下6-70mの集落入口には祠が建つ。目前の県道50号はJR山陰線踏切・「上佐野」交差点間で、共に約4-50mの距離。再び長楽寺背後の水生城Ⅲ郭~主郭に戻り「水生城 Ⅲ(水生城合戦:主郭から竹貫城)」に向かう。
水生城城域南麓を流れる八代川注 水生城西郭部を指すⅣ郭(現?:竹貫城)ではなく東尾根上Ⅲ郭に継ぐ曲輪群
水生城Ⅰ~Ⅲ郭より東尾根筋の曲輪群:位置は幻の!?Ⅳ郭付近…!?
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