水生城 Ⅲ(Ⅲ郭-主郭から竹貫城へ) 豊岡市日高町
水生城Ⅰでは水生城はⅠ郭(主郭)・Ⅱ郭(三重堀切がある)・Ⅲ郭(土塁の監視曲輪をもつ)の三郭で構成されるが、主郭尾根西に大堀切を介・土橋状も続く距離も離れているが、兵庫県埋蔵文化財分布地図に「水生城西郭部」とされている主尾根筋西端の城砦遺構(平成初期に発見!)をⅣ郭ともされているが、城郭資料全般からも「竹貫城」とする。
水生城東尾根:Ⅱ郭~Ⅴ郭!?と先端部まで曲輪群が連続:上佐野交差点付近から水生城Ⅱでは三角点峰:水尾山160mに主曲輪を置き石積みも遺る水生城主郭(Ⅰ郭)からは東尾根筋にⅡ郭・土塁曲輪のⅢ郭までが城域とされる…が東へ延びる主尾根の最先端まで曲輪が連なる。またⅡ郭・Ⅲ郭からの北枝尾根上や、今回のⅣ郭にも南面斜面と北尾根側に小曲輪群や堀切・空堀で曲輪域を区分する三曲輪があった。
水生城主郭の石垣此の水生城 Ⅲでは水生城から竹貫城への丘陵部にかけて野田合戦【山名氏家臣毛利方の垣屋氏(轟城・旧日高町域)と織田方の田結庄氏(鶴城・豊岡市東部から出石町域)との間で起きた毛利VS織田の代理戦争とも云われる戦い】の垣屋方拠点ともなり、天正5・6年の但馬攻め:羽柴秀長の水生城攻めの際の陣城にもなった…のではないか?とされる竹貫城に向かう。
Ⅱ郭の三重堀切:Ⅲ郭側南斜面から水生城・竹貫城間トレース中の城域・縄張りについては幾つものHPやWebの記事を散見するので割愛し、此処を舞台とする野田合戦における(垣屋氏の日高町・田井庄氏の豊岡市東部)との”境目の城”を追いながら進んでみたい。丘陵尾根続きの竹貫城ー水生城の城域南西端:日高町竹貫地区から南東端の上石地区に掛けて丘陵南麓を八代川が流れ上石地区の先・佐野で円山川に合流する天然の二重濠となって要害性を保つ。
Ⅲ郭西端の土塁曲輪今回は水生城城域の東端までトレースした結果:上佐野(八代川・JR山陰線とR312号から県道50号に入り但馬空港線に上佐野交差点に出る僅か100m程に接する丘陵尾根先にまで曲輪を繋げていたことを確認した。「境目の城」としては但馬空港の滑走路南端部の西側に岩井城があったが空港建設により発掘調査後に消滅したと云う。此の岩井城からは竹貫城・水生城へと・ほぼ横並び一直線の尾根続きの境界線上で繋がる。
水生城主郭東末端(Ⅱ郭側)堀切上の土塁(石礫!?が散乱)水生城Ⅱでは水生城Ⅰ~Ⅲ郭から更に東へは此の丘陵部東最先端にまで曲輪を並べる縄張りで超大型城郭となったが、丘陵部西端に位置する竹貫城も水尾城からの尾根接合部で南北の尾根を合わせる三叉路に主郭部を置く。北尾根筋が但馬空港滑走路南端へと延びる直前に、三段曲輪(曲輪間を空堀・堀切状で分ける極小規模砦遺構「竹貫城北西の砦<仮称>」があり、岩井城の出曲輪的存在と思える。
主郭西曲輪にも石礫散乱箇所が…先端に土塁虎口(塹壕状?天水受池か?)竹貫城の南端も土塁:塹壕状の外(南)下に堀切・片堀切をみるが、更に南へ下ると小曲輪群が現れ少し距離を置いた比高90m程にも土橋付き空堀状・竪堀状を備える腰曲輪…更に古墳群を取込んだ竹貫城「南東曲輪群」(仮称)がある。南北朝中期の延文元年(正平11年 1356)足利尊氏の但馬山名氏派掃討には南朝方の拠点となり山名時氏家臣:長左衛門尉道金らが立て籠った水生城だが、
主曲輪切岸の西北端に落ちる竪堀その後も永禄2年(1559)播磨国:赤松則貞が朝来郡の竹田城を落として北上。垣屋光成(楽々前城)は赤松氏と和睦し田結庄氏(鶴城)を攻めるが山名俊豊の仲裁で和睦、水生城は山名氏の家臣・西村丹後守が預かるが、天正3年(1575)再び:毛利方の垣屋氏(轟城・旧日高町域)と織田方の田結庄氏(鶴城・豊岡市東部から出石町域)との間で起きる野田合戦(毛利VS織田の代理戦争とも云われる)。
水生城と水生城西郭部(旧?Ⅳ郭)を分ける二重堀切城史は不明だが竹貫城は秀吉の「但馬攻め」に水生城を攻め・続いて有子山城攻めの陣城としても使用された様なので、古墳群を曲輪に取込んだ野田合戦やそれ以前の旧態を示す?「竹貫城の北西の砦」・「竹貫城南東尾根先端部曲輪群」についても次回以降併せて紹介…
「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」・ひょうごの城紀行(上)・豊岡市の城郭集成Ⅱ等参照。
水生城東尾根:Ⅱ郭~Ⅴ郭!?と先端部まで曲輪群が連続:上佐野交差点付近から水生城Ⅱでは三角点峰:水尾山160mに主曲輪を置き石積みも遺る水生城主郭(Ⅰ郭)からは東尾根筋にⅡ郭・土塁曲輪のⅢ郭までが城域とされる…が東へ延びる主尾根の最先端まで曲輪が連なる。またⅡ郭・Ⅲ郭からの北枝尾根上や、今回のⅣ郭にも南面斜面と北尾根側に小曲輪群や堀切・空堀で曲輪域を区分する三曲輪があった。
水生城主郭の石垣此の水生城 Ⅲでは水生城から竹貫城への丘陵部にかけて野田合戦【山名氏家臣毛利方の垣屋氏(轟城・旧日高町域)と織田方の田結庄氏(鶴城・豊岡市東部から出石町域)との間で起きた毛利VS織田の代理戦争とも云われる戦い】の垣屋方拠点ともなり、天正5・6年の但馬攻め:羽柴秀長の水生城攻めの際の陣城にもなった…のではないか?とされる竹貫城に向かう。
Ⅱ郭の三重堀切:Ⅲ郭側南斜面から水生城・竹貫城間トレース中の城域・縄張りについては幾つものHPやWebの記事を散見するので割愛し、此処を舞台とする野田合戦における(垣屋氏の日高町・田井庄氏の豊岡市東部)との”境目の城”を追いながら進んでみたい。丘陵尾根続きの竹貫城ー水生城の城域南西端:日高町竹貫地区から南東端の上石地区に掛けて丘陵南麓を八代川が流れ上石地区の先・佐野で円山川に合流する天然の二重濠となって要害性を保つ。
Ⅲ郭西端の土塁曲輪今回は水生城城域の東端までトレースした結果:上佐野(八代川・JR山陰線とR312号から県道50号に入り但馬空港線に上佐野交差点に出る僅か100m程に接する丘陵尾根先にまで曲輪を繋げていたことを確認した。「境目の城」としては但馬空港の滑走路南端部の西側に岩井城があったが空港建設により発掘調査後に消滅したと云う。此の岩井城からは竹貫城・水生城へと・ほぼ横並び一直線の尾根続きの境界線上で繋がる。
水生城主郭東末端(Ⅱ郭側)堀切上の土塁(石礫!?が散乱)水生城Ⅱでは水生城Ⅰ~Ⅲ郭から更に東へは此の丘陵部東最先端にまで曲輪を並べる縄張りで超大型城郭となったが、丘陵部西端に位置する竹貫城も水尾城からの尾根接合部で南北の尾根を合わせる三叉路に主郭部を置く。北尾根筋が但馬空港滑走路南端へと延びる直前に、三段曲輪(曲輪間を空堀・堀切状で分ける極小規模砦遺構「竹貫城北西の砦<仮称>」があり、岩井城の出曲輪的存在と思える。
主郭西曲輪にも石礫散乱箇所が…先端に土塁虎口(塹壕状?天水受池か?)竹貫城の南端も土塁:塹壕状の外(南)下に堀切・片堀切をみるが、更に南へ下ると小曲輪群が現れ少し距離を置いた比高90m程にも土橋付き空堀状・竪堀状を備える腰曲輪…更に古墳群を取込んだ竹貫城「南東曲輪群」(仮称)がある。南北朝中期の延文元年(正平11年 1356)足利尊氏の但馬山名氏派掃討には南朝方の拠点となり山名時氏家臣:長左衛門尉道金らが立て籠った水生城だが、
主曲輪切岸の西北端に落ちる竪堀その後も永禄2年(1559)播磨国:赤松則貞が朝来郡の竹田城を落として北上。垣屋光成(楽々前城)は赤松氏と和睦し田結庄氏(鶴城)を攻めるが山名俊豊の仲裁で和睦、水生城は山名氏の家臣・西村丹後守が預かるが、天正3年(1575)再び:毛利方の垣屋氏(轟城・旧日高町域)と織田方の田結庄氏(鶴城・豊岡市東部から出石町域)との間で起きる野田合戦(毛利VS織田の代理戦争とも云われる)。
水生城と水生城西郭部(旧?Ⅳ郭)を分ける二重堀切城史は不明だが竹貫城は秀吉の「但馬攻め」に水生城を攻め・続いて有子山城攻めの陣城としても使用された様なので、古墳群を曲輪に取込んだ野田合戦やそれ以前の旧態を示す?「竹貫城の北西の砦」・「竹貫城南東尾根先端部曲輪群」についても次回以降併せて紹介…
「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」・ひょうごの城紀行(上)・豊岡市の城郭集成Ⅱ等参照。
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