水生城 Ⅳ 水生城から竹貫城へ 豊岡市日高町
水生城は長楽寺背後の丘陵を東西に延びる尾根続き:ほぼ独立した四ヶ所に城砦をもつ城砦群のうち、以前から知られている(東西約650m・南北約130m程のⅠ~Ⅲ郭)を一般的!?に水生城と呼ばれ水生城主郭(Ⅰ郭)からは、少し距離をおく西方の尾根続き標高193m周辺城砦遺構を「水生城主郭西曲輪」と云いⅣ郭とされている!?…
Ⅰ郭から東尾根に移るⅡ郭側堀切
兵庫県遺跡地図Web版(令和2年時点…なので更新されているのか文書・資料を未確認…)にも”水生城址西群”なので未だ「竹貫城」が城名として認められていないのか…?。此処では既に一般的な呼称?!の竹貫<たかぬき>城とするが、水尾城・竹貫城ともに築城時期や城主等の城史詳細は不明。室町中庸期頃の城主だったか!?…の在地国人領主?竹貫氏についても不詳。
上図(堀切)上部帯曲輪Ⅰ水生城主郭西の土塁虎口(西北側に天水受の池か?塹壕状がある)下の曲輪から、高い切岸を降った鞍部の二重堀切を越えると長い土橋状尾根が続く。抜け出た所で最初?の関電:豊岡国府線25(平成9年)架設の鉄塔が建つ。此処は谷詰めに位置して南東方向に円山川と豊岡市街地方向に眺望が効く。此の先直ぐ左右上方の曲輪(木戸番所?)間の凹郭部(通路?)を抜け出た緩斜な尾根筋を150m程進むと竹貫城東郭部に入る。
上図(主郭東裾帯曲輪Ⅰから帯曲輪Ⅱへ)20mx50m程と幅広い東尾根側曲輪の中程南からは中央部まで掘り込んだ広い空堀(竪堀状)があり、下方から通じる山道か?と思えたが堀底状をL字状に一折れして東郭に入り、更に西端にも同様に土塁虎口をL字状に抜けて最高所の竹貫城主郭(中央角)部に入る。主郭部は但馬空港滑走路南東端付近に至る北尾根側と竹貫地区に先端を落とす南尾根の三方尾根筋を削平した郭群だが、
上図(主郭東裾帯曲輪Ⅱから帯曲輪Ⅲ(南端中央は虎口?)堀切は主要郭の南端に一条設けられているだけ。◎(注)但馬空港滑走路南西端付近に岩井城があり平成3年(1991)但馬空港建設に伴い・兵庫県教育委員会により全面発掘調査が実施され調査報告書だけを残して遺構は消滅したと云う…。周辺に城砦遺構は無いとも…されるが?…この岩井城に関連した砦として、谷を隔てているが尾根筋で繋がる竹貫城の北西の砦があり、
主郭東面裾を南へ帯曲輪・北端には三段曲輪:激急斜面上の主曲輪北端には石積竹貫城主郭(中央角)部南部から南へ延びる尾根先端部付近にも「竹貫城南東尾根先端部曲輪群」がある!!。また日高町竹貫・日高町藤井集落間:滑走路真南へ延びる尾根最高峰132mから南先端(R483号竹貫トンネル南口)上の送電線鉄塔付近に掛けても藤井東城がある!!…が、次回「水生城Ⅴ」で消滅した南朝期から天正3年「野田合戦」頃までの岩井城に関連した砦として紹介します。
主郭西の切岸下は堀切が埋め戻されたものか?(左端は竪堀)山名時氏の臣・長左衛門尉道金によって築かれた南朝方の拠点「水生城」は延文元年(正平11年 1356)国分寺城に布陣した北朝方<今川賴貞軍>伊達真信が攻め宿南城・八代城・大坪城・長道金の拠る水生城も次々と落城後は大永年間(1521-28)西村丹後守の居城となったという。永禄2年(1559)播磨赤松則貞の但馬侵攻による水生城下(善野寺野合戦)では垣屋光成が迎撃や、
水生城から竹貫城へは長い土橋状尾根を辿る明智光秀が進美山を陣城に西村丹後守の水生城を攻めるが撃退したとか…?。天正3年(1575)再び:毛利方の垣屋氏と織田方の田結庄氏の間で起きる野田合戦。羽柴秀吉の第一次但馬攻めが開始された天正5年(1577)秋…弟の秀長(秀吉の異父弟)を但馬竹田城に入れる。天正6年(1578)4月:毛利方の竹野轟城主垣屋豊続・古志重信・宇山久信らと織田方の伊藤与三左衛門尉(宵田城督)・
竹貫城:東郭中央南側からクランクを折れて入る虎口垣屋光成・宵田城主(垣屋孝続か)らが「宵田表(宵田城)」や「水生城」で合戦にいたり毛利方が一時的に勝利している。別所氏の三木城が開城すると播磨の国人領主の多くが秀吉軍に属し・但馬八木氏も織田方に付く。羽柴秀吉の鳥取城攻めが開始される天正8年(1580)4月:羽柴秀長が第二次但馬攻めに出兵。毛利方の轟城主:垣屋豊続が、西村丹後守の水生城に日高町の国分寺城(大坪又四郎)・
竹貫城東郭西端から竹貫城中央部に入る虎口も土塁脇でクランクする伊福城(下津屋伯耆守)・上郷城?(赤木丹後守)・宮井城(豊岡市)篠部伊賀守)・林甫城(美方郡香美町)長越前守”ら毛利方但馬勢1500人を集めて立籠もった。一方:織田方の羽柴秀長には宮部継潤(善祥坊)・藤堂高虎と家臣で養父市大屋町国人?の居相孫作・栃尾源左衛門らであったという…が、篠部伊賀守は日頃から西村丹後守に対し私怨があり、
竹貫城唯一の堀切がある南郭部南端毛利方但馬勢が立てた作戦を羽柴秀長に密告したため作戦は失敗に終わり・緒戦の浅間城(八鹿市浅間)の戦いに城主:佐々木義高は戦わずして城を明け渡している。これを契機に秀長軍は出石城を攻略して攻め寄せた水生城も程なくして落城、更に水尾城から豊岡市街地への眺望が効き有子山城攻め臨戦の陣城として使用されたのでは?…推察されている程度…!!。
「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」・ひょうごの城紀行(上)・豊岡市の城郭集成Ⅱ…等を参照
Ⅰ郭から東尾根に移るⅡ郭側堀切
兵庫県遺跡地図Web版(令和2年時点…なので更新されているのか文書・資料を未確認…)にも”水生城址西群”なので未だ「竹貫城」が城名として認められていないのか…?。此処では既に一般的な呼称?!の竹貫<たかぬき>城とするが、水尾城・竹貫城ともに築城時期や城主等の城史詳細は不明。室町中庸期頃の城主だったか!?…の在地国人領主?竹貫氏についても不詳。
上図(堀切)上部帯曲輪Ⅰ水生城主郭西の土塁虎口(西北側に天水受の池か?塹壕状がある)下の曲輪から、高い切岸を降った鞍部の二重堀切を越えると長い土橋状尾根が続く。抜け出た所で最初?の関電:豊岡国府線25(平成9年)架設の鉄塔が建つ。此処は谷詰めに位置して南東方向に円山川と豊岡市街地方向に眺望が効く。此の先直ぐ左右上方の曲輪(木戸番所?)間の凹郭部(通路?)を抜け出た緩斜な尾根筋を150m程進むと竹貫城東郭部に入る。
上図(主郭東裾帯曲輪Ⅰから帯曲輪Ⅱへ)20mx50m程と幅広い東尾根側曲輪の中程南からは中央部まで掘り込んだ広い空堀(竪堀状)があり、下方から通じる山道か?と思えたが堀底状をL字状に一折れして東郭に入り、更に西端にも同様に土塁虎口をL字状に抜けて最高所の竹貫城主郭(中央角)部に入る。主郭部は但馬空港滑走路南東端付近に至る北尾根側と竹貫地区に先端を落とす南尾根の三方尾根筋を削平した郭群だが、
上図(主郭東裾帯曲輪Ⅱから帯曲輪Ⅲ(南端中央は虎口?)堀切は主要郭の南端に一条設けられているだけ。◎(注)但馬空港滑走路南西端付近に岩井城があり平成3年(1991)但馬空港建設に伴い・兵庫県教育委員会により全面発掘調査が実施され調査報告書だけを残して遺構は消滅したと云う…。周辺に城砦遺構は無いとも…されるが?…この岩井城に関連した砦として、谷を隔てているが尾根筋で繋がる竹貫城の北西の砦があり、
主郭東面裾を南へ帯曲輪・北端には三段曲輪:激急斜面上の主曲輪北端には石積竹貫城主郭(中央角)部南部から南へ延びる尾根先端部付近にも「竹貫城南東尾根先端部曲輪群」がある!!。また日高町竹貫・日高町藤井集落間:滑走路真南へ延びる尾根最高峰132mから南先端(R483号竹貫トンネル南口)上の送電線鉄塔付近に掛けても藤井東城がある!!…が、次回「水生城Ⅴ」で消滅した南朝期から天正3年「野田合戦」頃までの岩井城に関連した砦として紹介します。
主郭西の切岸下は堀切が埋め戻されたものか?(左端は竪堀)山名時氏の臣・長左衛門尉道金によって築かれた南朝方の拠点「水生城」は延文元年(正平11年 1356)国分寺城に布陣した北朝方<今川賴貞軍>伊達真信が攻め宿南城・八代城・大坪城・長道金の拠る水生城も次々と落城後は大永年間(1521-28)西村丹後守の居城となったという。永禄2年(1559)播磨赤松則貞の但馬侵攻による水生城下(善野寺野合戦)では垣屋光成が迎撃や、
水生城から竹貫城へは長い土橋状尾根を辿る明智光秀が進美山を陣城に西村丹後守の水生城を攻めるが撃退したとか…?。天正3年(1575)再び:毛利方の垣屋氏と織田方の田結庄氏の間で起きる野田合戦。羽柴秀吉の第一次但馬攻めが開始された天正5年(1577)秋…弟の秀長(秀吉の異父弟)を但馬竹田城に入れる。天正6年(1578)4月:毛利方の竹野轟城主垣屋豊続・古志重信・宇山久信らと織田方の伊藤与三左衛門尉(宵田城督)・
竹貫城:東郭中央南側からクランクを折れて入る虎口垣屋光成・宵田城主(垣屋孝続か)らが「宵田表(宵田城)」や「水生城」で合戦にいたり毛利方が一時的に勝利している。別所氏の三木城が開城すると播磨の国人領主の多くが秀吉軍に属し・但馬八木氏も織田方に付く。羽柴秀吉の鳥取城攻めが開始される天正8年(1580)4月:羽柴秀長が第二次但馬攻めに出兵。毛利方の轟城主:垣屋豊続が、西村丹後守の水生城に日高町の国分寺城(大坪又四郎)・
竹貫城東郭西端から竹貫城中央部に入る虎口も土塁脇でクランクする伊福城(下津屋伯耆守)・上郷城?(赤木丹後守)・宮井城(豊岡市)篠部伊賀守)・林甫城(美方郡香美町)長越前守”ら毛利方但馬勢1500人を集めて立籠もった。一方:織田方の羽柴秀長には宮部継潤(善祥坊)・藤堂高虎と家臣で養父市大屋町国人?の居相孫作・栃尾源左衛門らであったという…が、篠部伊賀守は日頃から西村丹後守に対し私怨があり、
竹貫城唯一の堀切がある南郭部南端毛利方但馬勢が立てた作戦を羽柴秀長に密告したため作戦は失敗に終わり・緒戦の浅間城(八鹿市浅間)の戦いに城主:佐々木義高は戦わずして城を明け渡している。これを契機に秀長軍は出石城を攻略して攻め寄せた水生城も程なくして落城、更に水尾城から豊岡市街地への眺望が効き有子山城攻め臨戦の陣城として使用されたのでは?…推察されている程度…!!。
「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」・ひょうごの城紀行(上)・豊岡市の城郭集成Ⅱ…等を参照
この記事へのコメント