水生城:Ⅴ 竹貫城…藤井東城 豊岡市
岩井城は標高245m!?山頂にあり平成3年(1991)但馬空港建設に伴い・兵庫県教育委員会により全面発掘調査が実施され其の遺構は消滅したと云う!?。但馬守護:山名氏は明徳の乱 (1391)以降続く内乱に其の権威も衰退化…為に…「山名四天王」の垣屋氏・田結庄氏・八木氏・太田垣氏等は勝手に勢力拡大を図って相争うようになってくると、弘治2年(1556)には山名家臣団の勢力争いを抑止切れない程に弱体化した
八代川より望む藤井城(中央奥!)から但馬空港(左方)山名氏に離叛した太田垣朝延(竹田城主)は山名祐豊から再び生野銀山の領有権を奪還。天正3年(1575年)には円山川を挟んで対峙する旧日高町域の毛利方:垣屋豊続と豊岡市・出石町域の織田方:田結庄是義の間で起こった(毛利VS織田の代理戦争とも云われる)野田(豊岡市宮島付近の沼田での野戦)合戦に垣屋豊続が改修した可能性が指摘されています。
竹貫城南郭:南端の土塁(塹壕?)「岩井城」は旧日高町側の毛利方垣屋氏と豊岡市街地側の織田方が円山川を挟んで対峙する「境目の城」だが周辺に城砦遺構はないともされるが?…空港の滑走路南西端部に岩井城があり、尾根続き滑走路南東端部には「竹貫城北西の砦<仮称>」があり、東尾根はそのまま「竹貫城」に至り其処からの東尾根が「水生城」にも繋がる。三段曲輪(曲輪間を空堀・堀切状で分ける極小規模砦遺構は、
竹貫城南郭の竪堀水生城東尾根でも散々見掛けた階段状の小古墳上にあるが、周辺一帯には遺跡調査分布図に一切遺構記載はない…が岩井城直近の東出曲輪的存在と思える。「竹貫城」南郭部南端には塹壕状凹部と防御の土塁や竪堀が一本あるが竹貫城に唯一の堀切!もあるが、途中に一基古墳?をみるだけで城砦遺構を見ないままの降る南尾根筋が東方向へ向かう尾根上を先端に掛けて、125m付近に小曲輪群
竹貫城:北西砦(3-4段小曲輪段<古墳か?>最下段に土塁:堀切あり)95m付近に土橋付堀切状?と南斜面に竪堀状?、標高60-50m程の最先端部には地理院地図に確認出来る森谷4号(径30m)大古墳と、連続する5基ばかりの小古墳を取込む小規模曲輪群が並び、竹貫地区集落に降立つ丘陵上の竹貫城南東部曲輪群<仮称>を見る。但馬空港滑走路南東の尾根筋に竹貫城があるが、滑走路真南へ延びる尾根最高峰132mから南先端(R483号竹貫トンネル南口)上の
竹貫城中央郭北方送電線鉄塔付近「日高町竹貫・日高町藤井集落間」に掛けての竹貫城西方にも藤井東城(仮称)があった。岩井城含め全ての城砦についての城主・城史は史料・伝承も不明だが、各曲輪群は中小規模の古墳群を利用したもの(自然地形に近く判断し辛い!?)・尾根筋に連続する遺構がなく「藤井東城」も尾根幅広く緩斜面が続く(古墳群か?)段差もある山頂部に曲輪等遺構はない。
藤井東城:南端は北近畿道竹貫トンネル南口上部堀切はなく土塁状に見えるのも雨水による土石の崩れか?。攻めが主?の臨戦的縄張りの様で消滅した南朝期から天正3年「野田合戦」頃までの岩井城に関連した砦群と推察します。ただ但馬攻略に織田方が入ったとする竹貫城主郭に遺る土塁・堀切・竪堀や虎口構造からは、室町末期より一部を改修してれ使用されてきた?遺構も混在しているよう。
藤井東城南端:竹貫トンネル南口から国分寺城方面(左下藪地の段差も曲輪・古墳か!?)「藤井東城(仮称)」は空港滑走路からの南尾根:標高132m付近の幅広い緩斜面(曲輪化されていないが中規模古墳群か?)の南下120m付近を主曲輪に、南先端部n送電線鉄塔付近下・竹貫トンエル南口付近まで300m程の長い城域を持つので城塞名を「xxx城」とした。主郭背後を堀切で遮断・主要郭には堀切・片堀切・竪堀?が構築され曲輪段を積むが切岸・土塁等技巧的なものを見ない。
藤井東城:南端(送電線鉄塔付近下)曲輪群藤井集落側の西枝尾根筋は主曲輪西斜面裾に堀切を見る。麓の藤井集落は直ぐ下方だが幅広尾根に見えた枝尾根筋は二方向に分かれ幅狭く急斜面で曲輪も古墳さえも無さそうです。主曲輪からは小曲輪群が続き・登路目標とした送電線鉄塔からの尾根筋下方にも、上り土塁状?下段から曲輪らしい?曲輪が4-5段連続し少し離れた曲輪が竹貫トンエル南口真上付近に一つある。
藤井東城主郭北尾根続きの堀切トンネル南口東側の藪に埋れる段差2段程は古墳と思えるが南正面に水上山城(未訪)や友軍!の国分寺城が北近畿自動車道沿いの先に見えて、通信・見張の曲輪としても適地。応仁の乱(1467-73)後:但馬守護山名氏支配の弱体・衰退してゆくなか垣屋氏等が台頭してくる。山名氏家臣団も毛利方と連携する垣屋氏と,小田方の田結庄氏との間で起きた野田合戦に懸かる城砦群として、続いて起こる水生城合戦にも堀切等を補強改修して使用されてきたものか…。
藤井東城主郭西面:主曲輪の空堀(東面は大崩壊の為堀切だったかも?) 水生城-竹貫城-藤井東城関連ブログ ↓
水生城Ⅰ(長楽寺と城域) 水生城 Ⅱ(幻のⅣ郭曲輪群)
水生城 Ⅲ(Ⅲ郭から竹貫城へ) 水生城 Ⅳ (水生城・竹貫城)
水生城 Ⅴ 竹貫城北砦と南曲輪群・藤井東城
兵庫県文化財調査報告書第130冊:教育委員会(1944年3月)岩井城跡:「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」:ひょうごの城紀行(上):豊岡市の城郭集成Ⅱ等参照
八代川より望む藤井城(中央奥!)から但馬空港(左方)山名氏に離叛した太田垣朝延(竹田城主)は山名祐豊から再び生野銀山の領有権を奪還。天正3年(1575年)には円山川を挟んで対峙する旧日高町域の毛利方:垣屋豊続と豊岡市・出石町域の織田方:田結庄是義の間で起こった(毛利VS織田の代理戦争とも云われる)野田(豊岡市宮島付近の沼田での野戦)合戦に垣屋豊続が改修した可能性が指摘されています。
竹貫城南郭:南端の土塁(塹壕?)「岩井城」は旧日高町側の毛利方垣屋氏と豊岡市街地側の織田方が円山川を挟んで対峙する「境目の城」だが周辺に城砦遺構はないともされるが?…空港の滑走路南西端部に岩井城があり、尾根続き滑走路南東端部には「竹貫城北西の砦<仮称>」があり、東尾根はそのまま「竹貫城」に至り其処からの東尾根が「水生城」にも繋がる。三段曲輪(曲輪間を空堀・堀切状で分ける極小規模砦遺構は、
竹貫城南郭の竪堀水生城東尾根でも散々見掛けた階段状の小古墳上にあるが、周辺一帯には遺跡調査分布図に一切遺構記載はない…が岩井城直近の東出曲輪的存在と思える。「竹貫城」南郭部南端には塹壕状凹部と防御の土塁や竪堀が一本あるが竹貫城に唯一の堀切!もあるが、途中に一基古墳?をみるだけで城砦遺構を見ないままの降る南尾根筋が東方向へ向かう尾根上を先端に掛けて、125m付近に小曲輪群
竹貫城:北西砦(3-4段小曲輪段<古墳か?>最下段に土塁:堀切あり)95m付近に土橋付堀切状?と南斜面に竪堀状?、標高60-50m程の最先端部には地理院地図に確認出来る森谷4号(径30m)大古墳と、連続する5基ばかりの小古墳を取込む小規模曲輪群が並び、竹貫地区集落に降立つ丘陵上の竹貫城南東部曲輪群<仮称>を見る。但馬空港滑走路南東の尾根筋に竹貫城があるが、滑走路真南へ延びる尾根最高峰132mから南先端(R483号竹貫トンネル南口)上の
竹貫城中央郭北方送電線鉄塔付近「日高町竹貫・日高町藤井集落間」に掛けての竹貫城西方にも藤井東城(仮称)があった。岩井城含め全ての城砦についての城主・城史は史料・伝承も不明だが、各曲輪群は中小規模の古墳群を利用したもの(自然地形に近く判断し辛い!?)・尾根筋に連続する遺構がなく「藤井東城」も尾根幅広く緩斜面が続く(古墳群か?)段差もある山頂部に曲輪等遺構はない。
藤井東城:南端は北近畿道竹貫トンネル南口上部堀切はなく土塁状に見えるのも雨水による土石の崩れか?。攻めが主?の臨戦的縄張りの様で消滅した南朝期から天正3年「野田合戦」頃までの岩井城に関連した砦群と推察します。ただ但馬攻略に織田方が入ったとする竹貫城主郭に遺る土塁・堀切・竪堀や虎口構造からは、室町末期より一部を改修してれ使用されてきた?遺構も混在しているよう。
藤井東城南端:竹貫トンネル南口から国分寺城方面(左下藪地の段差も曲輪・古墳か!?)「藤井東城(仮称)」は空港滑走路からの南尾根:標高132m付近の幅広い緩斜面(曲輪化されていないが中規模古墳群か?)の南下120m付近を主曲輪に、南先端部n送電線鉄塔付近下・竹貫トンエル南口付近まで300m程の長い城域を持つので城塞名を「xxx城」とした。主郭背後を堀切で遮断・主要郭には堀切・片堀切・竪堀?が構築され曲輪段を積むが切岸・土塁等技巧的なものを見ない。
藤井東城:南端(送電線鉄塔付近下)曲輪群藤井集落側の西枝尾根筋は主曲輪西斜面裾に堀切を見る。麓の藤井集落は直ぐ下方だが幅広尾根に見えた枝尾根筋は二方向に分かれ幅狭く急斜面で曲輪も古墳さえも無さそうです。主曲輪からは小曲輪群が続き・登路目標とした送電線鉄塔からの尾根筋下方にも、上り土塁状?下段から曲輪らしい?曲輪が4-5段連続し少し離れた曲輪が竹貫トンエル南口真上付近に一つある。
藤井東城主郭北尾根続きの堀切トンネル南口東側の藪に埋れる段差2段程は古墳と思えるが南正面に水上山城(未訪)や友軍!の国分寺城が北近畿自動車道沿いの先に見えて、通信・見張の曲輪としても適地。応仁の乱(1467-73)後:但馬守護山名氏支配の弱体・衰退してゆくなか垣屋氏等が台頭してくる。山名氏家臣団も毛利方と連携する垣屋氏と,小田方の田結庄氏との間で起きた野田合戦に懸かる城砦群として、続いて起こる水生城合戦にも堀切等を補強改修して使用されてきたものか…。
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水生城 Ⅲ(Ⅲ郭から竹貫城へ) 水生城 Ⅳ (水生城・竹貫城)
水生城 Ⅴ 竹貫城北砦と南曲輪群・藤井東城
兵庫県文化財調査報告書第130冊:教育委員会(1944年3月)岩井城跡:「兵庫県の中世城館・荘園遺跡」:ひょうごの城紀行(上):豊岡市の城郭集成Ⅱ等参照
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