小谷城(小ノ谷城) 篠山市小多田
小多田(おただ)の小谷城(小ノ谷城)へ再訪です。R372(デカンショ街道)「小枕」交差点が三田方面から母子(もうし)を経て篠山に入る県道49号で、先のブログに紹介した虚空蔵山城(仮称)がある。次の小多田の交差点を南へ右折する角に迫る法光寺山城の小多田砦下を通って天満神社・小多田公民館前からは、
天満神社側から小谷城全景(丘陵部前部の藪地と伐採上部尾根)西側の小高い丘陵部前面山麓に厩舎が見える傍らの飼料サイロ側からの入るが比高僅か4~50m程。城域の南方からは丘陵西側集落へ越える猪垣フエンス沿いに城域の尾根を西側集落に越えるルートもあるが:此方は…古墓や足場が湿気た泥濘も…。しかし鞍部?付近からの短い急登で山頂部南端の虎口から曲輪に入る。 城域北先端東面の帯曲輪・さらに一段上に主曲輪城域は東西に幅約30m・南北の尾根沿いに長さ90-100m程の削平段がある。主郭部は1.5-2m程下段を周囲5-6m幅(部分的に2段の北斜面)の帯曲輪が取巻くだけで土塁や堀切はない。殊に城域北面・北東面の帯曲輪や小曲輪?部は灌木・下草藪に覆われ地表観察も容易でない!!。
東面南端付近の帯曲輪
古墳?もあるが藪に覆われ急斜面なので短いながら竪堀が隠れているかも?。展望も東前方に法光寺山塊があり八上城は望めないが三好長慶・内藤氏勢や明智光秀の八上城付城として殿町と奥谷側小多田(おただ)を短絡に結ぶ小峠を監視した砦か。西方(木枕)の虚空蔵山城(仮称)側からも峠越で小多田に至る。
城域西面北の帯曲輪城主等城史は不明だが小多田地区の北面が拓けて三方を丘陵で囲まれた中央南部にあって初期には小多田地区の入口を固める法光寺山城の小多田砦と小谷城が呼応し西面から、または背後の摂津三田方面から小多田地区への侵入する敵…というより明智軍に包囲された八上籠城軍への兵糧軍需物資輸送路に、
城域南端の上り土塁虎口?状三田側の母子や永沢寺から三国ヶ岳経由・また後川や曽地方面から殿町への搬路が絶たれると、小多田からの搬路が想定出来るので、八上城側への物流・通行監視に対する備えの砦だったのかも知れません。また小多田地区からは法光寺山塊の南側の低い鞍部を簡単に奥谷側へ抜けられるので八上城を包囲する殿町への
城域を出た南尾根先を断ち小多田地区東西を繋ぐ深く狭い堀底状道絶好の侵攻口にもなる。兵を駐屯させた臨時の砦…なら築城不明点は多いだけに法光寺山城の西尾根砦群が当初は波多野氏の殿町警護の砦群・京都三好長慶・内藤氏が八上城攻城に此れを利用し、更に光秀が包囲の付城として改修したと考えられます。その頃には臨戦時の小谷城も廃され法光寺山城側の砦に移ったか…?。

天満神社側から小谷城全景(丘陵部前部の藪地と伐採上部尾根)西側の小高い丘陵部前面山麓に厩舎が見える傍らの飼料サイロ側からの入るが比高僅か4~50m程。城域の南方からは丘陵西側集落へ越える猪垣フエンス沿いに城域の尾根を西側集落に越えるルートもあるが:此方は…古墓や足場が湿気た泥濘も…。しかし鞍部?付近からの短い急登で山頂部南端の虎口から曲輪に入る。 城域北先端東面の帯曲輪・さらに一段上に主曲輪城域は東西に幅約30m・南北の尾根沿いに長さ90-100m程の削平段がある。主郭部は1.5-2m程下段を周囲5-6m幅(部分的に2段の北斜面)の帯曲輪が取巻くだけで土塁や堀切はない。殊に城域北面・北東面の帯曲輪や小曲輪?部は灌木・下草藪に覆われ地表観察も容易でない!!。
東面南端付近の帯曲輪
古墳?もあるが藪に覆われ急斜面なので短いながら竪堀が隠れているかも?。展望も東前方に法光寺山塊があり八上城は望めないが三好長慶・内藤氏勢や明智光秀の八上城付城として殿町と奥谷側小多田(おただ)を短絡に結ぶ小峠を監視した砦か。西方(木枕)の虚空蔵山城(仮称)側からも峠越で小多田に至る。
城域西面北の帯曲輪城主等城史は不明だが小多田地区の北面が拓けて三方を丘陵で囲まれた中央南部にあって初期には小多田地区の入口を固める法光寺山城の小多田砦と小谷城が呼応し西面から、または背後の摂津三田方面から小多田地区への侵入する敵…というより明智軍に包囲された八上籠城軍への兵糧軍需物資輸送路に、
城域南端の上り土塁虎口?状三田側の母子や永沢寺から三国ヶ岳経由・また後川や曽地方面から殿町への搬路が絶たれると、小多田からの搬路が想定出来るので、八上城側への物流・通行監視に対する備えの砦だったのかも知れません。また小多田地区からは法光寺山塊の南側の低い鞍部を簡単に奥谷側へ抜けられるので八上城を包囲する殿町への
城域を出た南尾根先を断ち小多田地区東西を繋ぐ深く狭い堀底状道絶好の侵攻口にもなる。兵を駐屯させた臨時の砦…なら築城不明点は多いだけに法光寺山城の西尾根砦群が当初は波多野氏の殿町警護の砦群・京都三好長慶・内藤氏が八上城攻城に此れを利用し、更に光秀が包囲の付城として改修したと考えられます。その頃には臨戦時の小谷城も廃され法光寺山城側の砦に移ったか…?。
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