小多田南城 篠山市小多田

摂津三田方面からは永沢寺・母子を経て三国ヶ岳の西肩を越える美濃坂峠は小川芋銭(うせん)の描いた題材「丹波霧海」地ともされる!?所。近世まで丹波市・篠山市から摂津・阪神間を結ぶ街道の一つだった。此の峠を降ってきた”小枕”に虚空蔵山城があり「デカンショ街道(R372号)」に出て右手(東)に向かうと四季山城が、
  殿町から奥谷池(正面堰堤ダム)と(右手のとんがり山)小多田南城
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次の「小多田(おただ)」交差点を右折する左手角に迫る低丘陵上には 法光寺山城の小多田砦(法光寺城第三砦)があるが、集落内を直進すると小多田公民館・天満神社に着く。西側正面の小高い丘陵部の小谷城(小ノ谷城)もブログやHPに紹介済みです…。此の小多田(おただ)地区から東へ抜ける小峠を越えると殿町で、目の前に
   小多田・善導寺(右手)向かいの尾根に小多田南城   
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八上城の前身蕪丸(奥谷城)があり、背後の尾根続きが丹波の三大山城の一:八上城で、多紀郡(現:篠山市)と摂津の一部(三田市北部!?)を支配した波多野氏の本拠地ですが、秀吉による三木籠城戦と時期を同じくして、明智光秀も同様に八上城包囲の飢餓作戦:攻手に人的被害・消耗は少ないが・籠城の将兵や一族家族の悲惨な落城悲話伝承が残る。
   緩斜面となった南端の露岩部から城域…
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八上城に対峙する篠山川沿い般若寺城・勝山城・塚ノ山砦・野間砦…等の明智勢付城群は知られるが、摂津三田側から多紀郡に入る曽地谷には八上籠城の将兵らにと民衆・僧徒等が警戒の目を潜って救援の兵糧物資を運搬していたが、波多野氏加担に・捕らえられ惨殺された天正の首塚が後川奥を越える曽地川沿いの道に残され・三田市側にも「三田の民話」にも載せてある。
  城域中央部が本丸!?:西面に石積
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当初は物資運搬を援護した波多野氏側砦も:明智方の付城群に改修されたか…曽地奥砦(高野山城)・曽地砦(仮称)・曽地城・胡麻塩砦(仮称)…等は主に八上城へ搬入される兵糧輸送阻止が主な監視砦だったか。永沢寺や母子から曽地谷最奥を三国ヶ岳東麓へ回り込む丘陵尾根筋から殿町へ谷筋を下る破線ルートが示されている。
  城域の北先端部から法光寺山城・八上城・奥谷城(蕪丸)と殿町を望む
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現状では歩行通行も困難な曽地奥から殿町への峠越も昔は通常往来の街道!!であったと思える。曽地奥側で胡麻塩・奥谷側に厠谷(せんちたに)の名を収集して胡麻塩砦<仮称>とした砦があり、急斜面上に小曲輪群4-5箇所を見る。此の荒れた谷筋を奥谷池への途中から望む丘陵部に砦跡在り!!との推測する:小多田と殿町間を分ける尾根筋の北方460mピークに小多田南城(仮称)があった!!。
   北先端部西面の段曲輪からは小多田の小谷城が正面に
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小多田地区の善導寺東向かいや、殿町の奥谷池の西上に尖峰を見せる山容が印象的。波多野氏の城下町守備の法光寺山砦群が八上城攻めの三好・内藤勢の向城となり、更に明智軍の付城の利用され、包囲網最終段階(天正6年後半-7年?)頃には八上城主郭間近に迫る八上城南東砦<仮称>・小多田南城(仮称)からは
   主曲輪付近の露岩の粗い平坦段:左方(西腰曲輪上)に石積がある!
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本城内部を常時監視される脅威に、体力・戦闘の意思さえ削がれる長期戦には籠城兵の疲労・緊迫感は如何ばかりだったろう…。小多田南城は南北に120-130m・東西10m幅の尾根筋に低段差の削平段(殆ど自然地形…!?)が続き、西面に帯曲輪・小段曲輪がある。唯一城跡!遺構の土留め”石積”が中央部西面にある。
   北先端部の段曲輪群(白っぽいのは雪)
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城域西面全域から小谷城・小多田地区を望み、北先端部の北と東面が法光寺山砦群・八上城・奥谷城(蕪丸)と殿町を望む。兵糧輸送等の街道(峠)監視は視野に入らない!が100m越の城域なので、包囲・制圧を誇示する光秀方の付城は規模から”城”としてはいるが攻守に天険の要害:高低差大きく、用途は城内監視の”小多田奥砦”。 

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