四季山城Ⅰ 篠山市小枕

摂津三田方面や古市方面からR372号(デカンショ街道)に入り真南条を抜けて八上城へ、また丹波氷上側から味間や大山下方面を杉・宇土・岩崎を経て八上城へ向う西面の要・玄関口に位置する四季山城は通行及び防衛上も重要な拠点なので要衝の砦としても小枕に居館を持っていた波多野氏の家老:谷山城主平林大膳秀衛の持城ではなかったかと思えるが…!!?
 四季山城:土橋付堀切
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城址であることは地元史誌等にも記述なく城史一切は不明。四季山の別名が丹波杜氏の里に相応しい!!”甑山”で酒米を蒸す用具にでも似ているのでしょうか!!?。三田方面からは永沢寺・母子から県道49号で篠山市に入り虚空蔵山城(仮称)麓をR372号「篠山市木枕」交差点に出ると3-400m程で四季山城南を抜け次の「小多田」交差点。小多田の小谷城小多田南城(or小多田南砦 仮称)は紹介済みだが、
 四季山城:土橋付堀切(主郭から)
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次の県道77号(延喜式山陰道)に交差する一帯南側が旧八上城(蕪丸)の殿町・その東丘陵上に波多野氏本拠の八上城がある。R372号は真南条を抜け四季山東へ抜けると北方や篠山川沿い東方が一気に拡がる田園地帯。独立丘陵の小丘なので何処からでも簡単に…とは思うが、田植え前の苗代作業の真っ最中なので畦道を伝って山裾へと歩くわけにもいきません。
  主郭
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谷山城跡からはR372号(デカンショ街道)に面した東側から緩やかな尾根が続いているのが見え、♪朝日に輝く四季山は…♪と四季山を校歌に謳う”城南小学校”も見える。西面の墓地や北面から馬口池への車道?からも登路がある?のかも知れない。畑の奥からはダイレクトに直上する立木に赤いペンキに沿って急登する尾根筋は西南端からの山道と合流する。
   主郭(堀切側切岸と北尾根側段曲輪)
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…とはいえ松茸山なので登り口はOPENではなさそう!?。何の予感もなく突然尾根上に居住空間とも思える平坦地があり、谷山城と同様の幅が短く浅い堀切に土橋が架かる。差程も急でない登り30m程で最高地点:5~6m四方の櫓台?主曲輪は西尾根側に二段ほど低い段差の曲輪・北へも3-4の緩やかな傾斜面に段曲輪が続き
   北尾根筋北東斜面の曲輪段
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北尾根筋北・東への尾根筋に沿って段差6~7m程度だが大小の曲輪群が半円を描くように配置されている。八上城を望む東面だが山麓の馬口池東の小山に眺望遮られ東面曲輪は東北先端付近のみ。東方約3km地点には八上城があり:西に小丸山砦・南に四季山城がある以外東方は田園地帯。八上城落城伝説に「女畷・乙女塚」が残るところで:最後には明智方の
   北尾根筋先端北東斜面段曲輪群の切岸
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八上城籠城戦の付城として改修され利用されたものか。西・北・東三方の斜面下方を輪郭状に小曲輪群・帯状の細長い小曲輪群が幾段にも重なり城域を取り囲こみ、西面曲輪群は墓地辺りからの登城口を守備・北から東面に掛けての小曲輪群が八上城下西面一帯を監視する。
   尾根先端から山裾まで続く小曲群
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四季山城東麓に馬口池があり、南側を通るR372号(デカンショ街道)は寿永3年(1184)源義経が平家討伐の軍勢を率いて鵯越・一ノ谷・湊川へ向かい、真南条街道(R372号)の”木枕”通過の際:武運を祈り春日神社に鞍を奉納して戦勝を祈願し、飼葉を与え・近くにある池で馬の口を洗った(水を飲ませた)伝承の馬口池がある。次回は篠山市内に残る義経一向に追随した二人の三郎(伊勢三郎・鷲尾三郎)や那須与一や義経所縁の伝承を追ってみたい。

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