細工所砦(荒木氏居館?) 篠山市

細工所城(荒木城・井串城)へは正面の尾根を直上して北西の細長い土橋を経て向かう搦め手道?、一般的な大手道には固定ロープを頼りに激急登の南西コースがあるが…更に主郭部東端に至る南東尾根ルートもある。此の南東尾根先端部の虎口を固める城砦遺構を細工所砦!?としてUPしているが、細工所城主:荒木氏の居館?であったとも、
   山門を潜る左手に「那須与一 権現堂」・正面に瑞祥寺
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天正5年明智軍の猛攻に落城した細工所城の砦は八上城包囲の明智光秀方の駐屯部隊を置いた向城?であったとも!…はたまた瑞祥寺背後:墓地背後の数段の広い曲輪(30mx60m程)は平安時代末期・那須与一が病気平癒を祈願した元:法楽寺か!?後:那須与一が別所にあった観音堂を此処に遷したとされる那須与一大権現があり、武運長久・諸願成就・中風封じに霊験があると云う。
   瑞祥寺裏手:墓地上に拡がる段曲輪(城郭類似遺構!?)
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当初は寺・墓地側からでもよいが丘陵麓の地区道北集落側から尾根筋沿い斜面の役行者像を祀る祠・城域中程には北方の民家側から続く長い竪堀?状の堀底道から曲輪群西端の切岸下を廻り一折れして曲輪に入る枡形虎口(此の荒木城館に明智勢が兵を置いた時のものか?)を通る。深く掘り切った竪堀?(堀底道)の尾根続き城域最奥部の幅広い曲輪(櫓台曲輪!)の土壇背後に回り込む堀切状(空堀)?となって山側を
  広い削平段の南に高い切岸・土塁道の先に主曲輪の秋葉社!?祠
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遮断している様。櫓台曲輪!内土壇には秋葉権現社が祀られている。尾根を遮断している筈の堀切は後年、手が入って削られてか東南への半分が消え、秋葉社背後は尾根に沿って堀底道状凹部が斜上しており、細工所城主郭への大手道か?。主尾根筋先端?に登り着くと此処にも南下に1段小曲輪が付く10㎡程の曲輪。緩斜な尾根筋が上方に続く…(未調査)が、登ってきた西斜面からも幅広い
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堀底道が上がってきているが、古い?山林作業用道らしく東斜面を瑞祥寺の南東下側に降りている。瑞祥寺上部の南西下へ降りる踏跡が秋葉社(幅10m・長さ30m程)の曲輪下段に直結しており、切岸下を”逆への字”の登城道に連絡する広い曲輪に降りる。降り立った北側にも土塁の残欠?を見る。広い平坦地形(凡そ20mx50m程だが、荒れた雑木藪は果樹園や畑地跡・墓地拡張整備等で旧状は大きく改変され
 !祠を祀る主曲輪側北面を捲く小曲輪・通路?
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数段の曲輪も均(なら)されてしまっているのかも?)・此の平坦地へ西北端からは1.5m幅の土塁状道が曲輪に上がってきており寺院跡だとも思える。荒木氏居館から秋葉社の土壇曲輪を尾根筋先端の物見曲輪?へ辿り、此れより緩斜な尾根伝いに細工所城主郭東端に繋がる登城道とは思える!。天文年間末期(1532~1555)園部城に拠っていた荒木山城守氏綱(氏香)が荒木城(井串城・細工所城)を築き 、
  主曲輪南(尾根続き):東面からの堀底道(竪堀)
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東大手口の井串の瑞祥寺背後の丘陵部に居館を構えたものか。霊輝山瑞祥寺(曹洞宗)も天文年中:城主山城守氏綱が洞光寺七世一華現易和尚を開山に創建した寺だが、細工所砦(荒木氏居館)の広い曲輪(平坦地)は其の際に移した寺院跡だったのかも?。天正7年(1579)明智光秀は波多野秀治に仲直りの使者として本目城(神尾山城)の野々口西蔵坊と荒木山城守を八上城へ行かせるが、
  主曲輪より更に上部(主尾根東先端部の二段曲輪!)
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此れが策略であったことは周知の事実ですね。切岸高い位置に立つ瑞祥寺自体も城砦遺構の曲輪!!か、池田方面からの綾部街道筋を見下ろし、京丹波・亀岡福住方面からの京街道に近い位置にあって、両街道筋からの波多野氏援軍の侵入を警戒・阻止するため兵を駐屯させた砦としても適地!?。荒木氏居館か?・細工所砦か?・細工所城(荒木城)落城後の八上城向城か?・単に寺院跡なのか?…兎も角:城郭類似遺構としてUPしておきます。

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