上新庄館 丹波市氷上町
R175号沿い加古川(佐治川)右岸を氷上町谷村・新郷へと県道109号を走る。赤井野と呼ばれた一帯に後谷城砦群がある赤井氏の本拠地で後黒井城主荻野直正(幼名:才丸)の出生地。新郷に入るとR175号からは白山(後屋山城・高城)とともに目立つ二つの山:弘浪山(高山寺城)の麓を抜け「葛野川」を渡り氷上町成松に入る。
大木と民家裏手の居館前をL字屈曲する上新庄谷川から森山城を望む「常楽」交差点の東に霧山(霧山城)を望む。北へは常楽砦(仮称)東麓を回り込んで賀茂・御油・沼から青垣町に向かう。東に加古川(佐治川)を挟んで絹山・伊佐口から香良城に至る山並みを望む一帯に香良合戦の戦場や砦群が点在…此れ等の小さな城砦群も・郡内最大規模の戦闘:香良合戦の事も余り知られていない…。
民家に至近の居館切岸香良合戦以前にも此処「常楽・新庄の戦い」があった…!という。古文書に確かな記述があれば…と思うが其の時期や経緯・原因も殆ど不明!…。三好・内藤氏が足立・芦田氏等に介入したのは香良合戦ではなく?、寧ろ常楽・新庄の戦いではなかったか!?…と推測するが…!!…北方からの侵攻のみを警戒するような段曲輪を見せる「常楽砦」に僅かに片鱗を感じる…が、嘗ての荘園(葛野荘)内には
埋蔵文化財調査の兵庫県遺跡地図には本荘氏の森山城(南郷城・長尾城)と「常楽交差点」近くに丸山城の記載をみるだけで、コメントには”…砦か?不明…”とあるだけ!。「常楽」の西方「下新庄」交差点の北近くの尾根先端部に下新庄城(内山砦)があり、尾根続き上方に下新庄東城(仮称)・更に登る最高所は広い平坦地形だが城砦遺構らしいものをみない…
民家側曲輪東端の山道と片堀切!(下方から)下新庄東城位置の西尾根筋には下新庄西城(仮称)があり、何れも二重堀切を設けている。其の西方に森山城(南郷城)が東西横並びに築かれている。森山城とは葛野川を挟んだ南の長野(おさの)に長野城(仮称)高山寺城:弘浪山へ続く枝尾根が、弘浪山から笹ヶ峰へ続く主尾根筋上の東峰山に繋がる手前には三原城(仮称)がある。
広い居住空間背後に巨大な土塁が…!!葛野荘は下新庄を荻野氏・上新庄を本荘氏が領有していた地頭で、南北朝期…弘浪山にある高山寺城は幾度も南朝・北朝の拠る合戦場となっているが、本荘平太?や丹波守護代荻野尾張守朝忠・丹波守護職仁木頼章らが籠っている。さて森山城(南郷城)東山麓:氷上西小学校の奥から森山城へ続く登山林道?
櫓台?幅広土塁と大堀切
(平成元年頃:ふるさと創世事業によるものらしい…)を見送り、森山城から東北へ落ちる尾根先を目標に集落内を北に進むと、突き出した尾根先端で、上新庄谷川が流れを変える所に某旧家が建つ。豪邸なのだが家主さんは留守がち…だが真東の車道(上新庄谷川)沿いの民家が親戚筋で、留守を任されておられるので、
大堀切南下端西に帯曲輪!?声を掛け敷地内の上新庄館(仮称)の立入許可を得て入山。正面の庭前を通るには”おこがまし”ので裏手の川沿いから民家上の藪中に建つ小屋を抜けると小曲輪らしい段差の上に(現状:)片堀切土塁と5-7m程の切岸上に低い段差ながら広い二段曲輪(奥の曲輪約40mx幅30・東手前曲輪約15mx20m)がある。
大堀切南端:手前左手に曲輪
西正面に高い土塁!!(櫓台土壇含む?幅広の土塁)と大堀切(幅約12x長さ凡そ70m)。堀切外(山側)にも広い平坦地形があり横穴式石室古墳の石材らしいものも散逸する。緩やかな上り斜面を辿れば森山城への大手道…と思えるが獣避けフエンスは向い側への開閉部も見つからず!?諦め引き返す。
森山城東北末端(中央)とタカクラ478m
氷上西小学校付近から振返るタカクラ478mの山容が美しい。此の安全山からの尾根西端”タカクラ”の南東尾根肩付近の二尾根筋に仮称の下新庄東城・西城がある。下新庄は荻野氏・森山城は本庄氏領域で城史関連は不詳。居館と詰め城セットの上新庄館は森山城主:本荘(本庄)氏の居館と推察するが、此処も遺跡・遺構調査がされたのか記録等を知らない。
民家側曲輪東端の山道と片堀切!(上方の曲輪東先端から)
大木と民家裏手の居館前をL字屈曲する上新庄谷川から森山城を望む「常楽」交差点の東に霧山(霧山城)を望む。北へは常楽砦(仮称)東麓を回り込んで賀茂・御油・沼から青垣町に向かう。東に加古川(佐治川)を挟んで絹山・伊佐口から香良城に至る山並みを望む一帯に香良合戦の戦場や砦群が点在…此れ等の小さな城砦群も・郡内最大規模の戦闘:香良合戦の事も余り知られていない…。
民家に至近の居館切岸香良合戦以前にも此処「常楽・新庄の戦い」があった…!という。古文書に確かな記述があれば…と思うが其の時期や経緯・原因も殆ど不明!…。三好・内藤氏が足立・芦田氏等に介入したのは香良合戦ではなく?、寧ろ常楽・新庄の戦いではなかったか!?…と推測するが…!!…北方からの侵攻のみを警戒するような段曲輪を見せる「常楽砦」に僅かに片鱗を感じる…が、嘗ての荘園(葛野荘)内には
埋蔵文化財調査の兵庫県遺跡地図には本荘氏の森山城(南郷城・長尾城)と「常楽交差点」近くに丸山城の記載をみるだけで、コメントには”…砦か?不明…”とあるだけ!。「常楽」の西方「下新庄」交差点の北近くの尾根先端部に下新庄城(内山砦)があり、尾根続き上方に下新庄東城(仮称)・更に登る最高所は広い平坦地形だが城砦遺構らしいものをみない…
民家側曲輪東端の山道と片堀切!(下方から)下新庄東城位置の西尾根筋には下新庄西城(仮称)があり、何れも二重堀切を設けている。其の西方に森山城(南郷城)が東西横並びに築かれている。森山城とは葛野川を挟んだ南の長野(おさの)に長野城(仮称)高山寺城:弘浪山へ続く枝尾根が、弘浪山から笹ヶ峰へ続く主尾根筋上の東峰山に繋がる手前には三原城(仮称)がある。
広い居住空間背後に巨大な土塁が…!!葛野荘は下新庄を荻野氏・上新庄を本荘氏が領有していた地頭で、南北朝期…弘浪山にある高山寺城は幾度も南朝・北朝の拠る合戦場となっているが、本荘平太?や丹波守護代荻野尾張守朝忠・丹波守護職仁木頼章らが籠っている。さて森山城(南郷城)東山麓:氷上西小学校の奥から森山城へ続く登山林道?
櫓台?幅広土塁と大堀切
(平成元年頃:ふるさと創世事業によるものらしい…)を見送り、森山城から東北へ落ちる尾根先を目標に集落内を北に進むと、突き出した尾根先端で、上新庄谷川が流れを変える所に某旧家が建つ。豪邸なのだが家主さんは留守がち…だが真東の車道(上新庄谷川)沿いの民家が親戚筋で、留守を任されておられるので、
大堀切南下端西に帯曲輪!?声を掛け敷地内の上新庄館(仮称)の立入許可を得て入山。正面の庭前を通るには”おこがまし”ので裏手の川沿いから民家上の藪中に建つ小屋を抜けると小曲輪らしい段差の上に(現状:)片堀切土塁と5-7m程の切岸上に低い段差ながら広い二段曲輪(奥の曲輪約40mx幅30・東手前曲輪約15mx20m)がある。
大堀切南端:手前左手に曲輪
西正面に高い土塁!!(櫓台土壇含む?幅広の土塁)と大堀切(幅約12x長さ凡そ70m)。堀切外(山側)にも広い平坦地形があり横穴式石室古墳の石材らしいものも散逸する。緩やかな上り斜面を辿れば森山城への大手道…と思えるが獣避けフエンスは向い側への開閉部も見つからず!?諦め引き返す。
森山城東北末端(中央)とタカクラ478m
氷上西小学校付近から振返るタカクラ478mの山容が美しい。此の安全山からの尾根西端”タカクラ”の南東尾根肩付近の二尾根筋に仮称の下新庄東城・西城がある。下新庄は荻野氏・森山城は本庄氏領域で城史関連は不詳。居館と詰め城セットの上新庄館は森山城主:本荘(本庄)氏の居館と推察するが、此処も遺跡・遺構調査がされたのか記録等を知らない。
民家側曲輪東端の山道と片堀切!(上方の曲輪東先端から)
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