梶の城山 Ⅰ(無縁五輪塔) 丹波市山南町
篠山川が加古川に流れ出る合流地点「井原橋」を渡るR175号「井原」交差点分岐を左折する県道86号は再び加古川(旧佐治川)に架かる船戸橋を渡るが、橋の西北方には中世土の城と奥丹波に一城築かれた近世石の城遺構を遺す蛇山(和田岩尾城)が望まれる。県道86号は岩尾城南麓を通り小野尻峠を北播磨の多可町へ越える。
加古川(船戸橋近くから中央に岩尾城・遠く多可郡の千ヶ峰が左手奥に)船戸橋東詰北側には小規模だが柱状(玄武岩)節理を見せる断崖があり、先端を加古川に落とす丘陵上が状山。其の名からは城山とも思える…!?。状山の南裾に”養護老人ホーム「五輪荘」”最奥の高台に「五輪山佛祥寺」があり、五輪山・五輪荘の由来は共に「一石五輪塔二基と菩薩像」が祀られている五輪さん
五輪山佛祥寺の堂宇後ろに五輪塔が祀られている各種考証・調査により500年前頃”永正年間(1504-21)”の石塔という。岩尾城第4代?城主谷出羽守兵部介頼衡に子がなく、甥の和田日向守齊頼を婿養子に迎えたが永正10年(1513)齊頼が養父:谷兵部介を刺殺し岩尾城主となります。しかし兵部介の妻(義母)を手にかける事は出来ず、家臣に命ずるには忠臣を失うことになる。
状山(城山)山上より足元に加古川・正面に岩尾城を望む状山に庵を建て幽閉する策略を知った兵部介の妻は、自ら黒髪を切り庵に籠って夫の冥福を祈り続けたが間もなく病で亡くなった。無縁の2基の五輪塔は、子のなかった谷兵部介夫婦:菩薩像は夫人の供養碑なのでしょう?。ささやかな墓標が奥方の墓である事は村人の口伝のみ・其れさえも忘れ去られていた…。
近年(昭和期前半頃か?)某氏が大病を患った折、自分の持ち山に五輪塔・菩薩像があることを思い出し願をかけたところ病は全快した。五輪塔・石仏は側の溜池から泥に埋もれていたのを発見され、お礼に祠を建て祭祀したところ霊験を伝え聞いた人たちの参詣が続き、今は佛祥寺と名付けて信仰を得るに至っている。この日も堂内から長い間読経が聞こえていた。
加古川(船戸橋近くから中央に岩尾城・遠く多可郡の千ヶ峰が左手奥に)船戸橋東詰北側には小規模だが柱状(玄武岩)節理を見せる断崖があり、先端を加古川に落とす丘陵上が状山。其の名からは城山とも思える…!?。状山の南裾に”養護老人ホーム「五輪荘」”最奥の高台に「五輪山佛祥寺」があり、五輪山・五輪荘の由来は共に「一石五輪塔二基と菩薩像」が祀られている五輪さん
五輪山佛祥寺の堂宇後ろに五輪塔が祀られている各種考証・調査により500年前頃”永正年間(1504-21)”の石塔という。岩尾城第4代?城主谷出羽守兵部介頼衡に子がなく、甥の和田日向守齊頼を婿養子に迎えたが永正10年(1513)齊頼が養父:谷兵部介を刺殺し岩尾城主となります。しかし兵部介の妻(義母)を手にかける事は出来ず、家臣に命ずるには忠臣を失うことになる。
状山(城山)山上より足元に加古川・正面に岩尾城を望む状山に庵を建て幽閉する策略を知った兵部介の妻は、自ら黒髪を切り庵に籠って夫の冥福を祈り続けたが間もなく病で亡くなった。無縁の2基の五輪塔は、子のなかった谷兵部介夫婦:菩薩像は夫人の供養碑なのでしょう?。ささやかな墓標が奥方の墓である事は村人の口伝のみ・其れさえも忘れ去られていた…。
近年(昭和期前半頃か?)某氏が大病を患った折、自分の持ち山に五輪塔・菩薩像があることを思い出し願をかけたところ病は全快した。五輪塔・石仏は側の溜池から泥に埋もれていたのを発見され、お礼に祠を建て祭祀したところ霊験を伝え聞いた人たちの参詣が続き、今は佛祥寺と名付けて信仰を得るに至っている。この日も堂内から長い間読経が聞こえていた。
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