梶の城山 Ⅱ (梶城山城) 丹波市山南町

播磨国境から「井原橋」を渡り丹波市に入る山南町最南端は、加古川(本流!?)と篠山川が流れ出る合流点。此れより加古川上流部(旧佐治川)沿いに延びる氷上回廊(佐治街道)を選ぶR175号沿いは山陰道の要衝が通じ、「野坂」交差点から「新田坂」を越える峠には:要衝監視の番守寺山城があって、
  R175号「野坂」から:標識背後に番守寺・右端に番守寺城跡・中央信号付近:梶城山城最高点)
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加古川の渡河を避けて氷上-成松-佐治に向かう関所城ともなっていたか?。また「井原」からは西へは県道86号線が再度:加古川に架かる「船戸橋」を越えて西北方の丘陵上に見える中世土の城・近世石の城の岩尾城を抜けて小野尻峠を北播磨の多可郡に通じる…が、更に高坂峠を越えて神河町や朝来市に通じる要衝でもある。
  番守寺城は最高地点の”箱式石棺出土”地を残して消滅した
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船戸橋東詰の北間近に比高50m程の低丘陵がある。先のブログ梶の城山Ⅰ(無縁五輪塔)に状山=城山ではないか…?と記したが…R175号が越える新田坂にあった番守寺山城も定山(じょうやま?)と西南の小ピークを経て3-400mの短い尾根先を加古川に落とす。二つの小ピーク(定山と状山!!)の南裾に日蓮宗吉祥山番守寺がある。
 定山(番守寺山城)境から状山側に移った東先端曲輪!?
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状山の無縁五輪塔は永正年中(1503-21)和田城主谷兵部介頼衛夫妻のものと伝わる。正治2年(1200)梶原景時の孫?平次三郎景教家臣:岡野源左衛門重行が移り住み此の地を開発したことから梶原の姓をとり”梶”の名があるが、元所より南部の辺りから人々が現所に移ってきたのは永禄年中(1558-70)の頃ト云い
  状山西南端の段曲輪(先端は播州街道・右手は足元に加古川を俯瞰)
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山麓に屋敷跡がある…とも!?。但馬街道・播州街道の分岐点ともなり一里塚旧跡もあったと!?。今回の梶城山城(仮称)は番守寺山城の寧ろ本城側!?で”一城別郭”の城。消滅した番守寺山城はR175号筋を氷上郡中央(丹波市氷上・春日…等)への南入口を監視、梶城山城(仮称)は氷上郡西の和田岩尾城下を北播磨・但馬方面に通じる
  主曲輪部!?
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岩尾城の東南入口監視と時代は下がるが「船戸橋」からは加古川上流(佐治川)水運に関する監視・管理を兼ねたものだったか?。船戸橋は和田岩尾城主の米船を着けたところ…また状山は岩尾城将の下総守?が”尉ヶ腰城(春日町)に矢継ぎの城伝承があるように”矢文を付けたところ…とも。状山の”じょう”は城とも報せの文:状の意味もあったか…!。番守寺山城は土石採取場として何故か最高地点の頭部を
    主曲輪前後の堀切1
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残して(番守寺山古墳:組合式箱式石棺出土)西の丘陵部に続く鞍部まで、スッカリ削平され消滅したが鞍部から西への稜線上には10数mの尾根幅一杯の削平段(曲輪:切岸曖昧・土塁もないが)1-3段程の曲輪ごと4本もの堀切を見る…!!が左右の斜面に竪堀状となって長く落ち込んでもいないので通路でも後世の山道でもない。
  主曲輪前後の堀切2
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南面から取付けば比高4-50mなのでどこからでも…!!?。南・東面から尾根筋までは短いが尾根を越ても西面は柱状節理が見られる断崖状を含む激急斜面・麓に降立ってもR175線側から北・西を南の船戸橋まで加古川測溝があり2-3簡易橋があるが丘陵側は深い雑木藪なので作業用山道でもない。
  状山(梶城山城)東端部の曲輪段
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「生野層群下部の流紋岩デイサイト質 ガラス質溶結凝灰岩、柱状節理」として”兵庫県レッドデータブック(2003年版)に地質の部・Cランク(59箇所のうちの一)として挙げられていたが一帯は荒れ放題…で公用土取場となっている様だが、既に放棄状態!!で藪化が進む?。入口部に建つ供養碑は此処にあった野坂古墳2基の撤去!?によるものか?。
  船戸橋から:今は外見からは見えない柱状節理の岩場を隠す状山「梶の城山」
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