丹生山 Ⅱ(兵糧輸送補給基地) 神戸市北区
丹生山Ⅰには神功皇后の三韓征伐に丹生神社の祭神:丹生都比売命の神託を得て戦勝、丹生(にう・にぶ)氏の氏神で水銀の原鉱である辰砂は古来「丹(に)と呼ばれ水銀鉱業を生業とする丹生氏族のこと、明要寺が推古天皇(在位592-628)の”仏教興隆の詔(命令)”以前:欽明天皇(在位539-571)の13年(552)に
明要寺跡北面と東面(一折する石積箇所も!?)石垣仏具・経典等を献上した日本仏教伝来以前の古社であること等・丹生神社の由緒について触れたが… …源平合戦では元暦2年(1185)京を発ち京街道を進み丹波道の現:篠山市入った。義経伝説の笛吹山・其の従者:鷲尾三郎経春(義久)・伊勢三郎義盛の供養碑/那須与一所縁の瑞祥寺等に関する伝承が彼方此方に残る。
明要寺跡:北石垣下の三社権現社?祠 上端部に丹生神社鳥居播磨三草山の合戦に次ぎ、一の谷の戦いで名を馳せた”鵯越え”の「義経道」伝説が残る。一ノ谷へと先導したのが北区山田町出身ともされる鷲尾三郎:丹生神社は明要寺城郭化した…丹生山城ともなった。衝原や坂本から丹生山を目指す登山者の多くは丹生神社から帝釈山-稚児ヶ墓山・花折山への縦走や志久ノ峠を淡河町へ、
丹生神社鳥居と右手登山道との分岐または丹生山からシビレ山を経由して志染町・淡河城側の道の駅にとる。此処からが本題の丹生山城多くの僧兵を抱え一大勢力と数多くの堂宇・伽藍を持つ丹生山明要寺は暦応元年(1338)後醍醐天皇・楠木正成ら南朝方の拠点として:
登山道の左に丹生山明要寺僧徒関連の宝篋印塔・墓石:右の谷側にも石仏・五輪塔群を見る柏尾城・金剛童子砦・花折砦・稚児ヶ墓山城…に塞城を構えていた新田義貞臣(新田氏一族庶流)金谷(治部大輔)経氏が僧兵等をたより丹生山明要寺を城郭化し守将:吉川八郎兵衛尉経清等が拠っていた。淡河城主も南朝方に付き播磨守護:赤松則村(円心)と戦い、暦応2年(1339)志染に陣を敷いた則祐(則村の三男)軍による明要寺攻め・
明要寺跡南東下曲輪の土留め石積(高い切岸上部)淡河・石峰寺・三津田の合戦に落城している。天正6年(1578)秀吉による三木合戦の折、毛利攻めの前戦基地として信長命で築かれ伊丹有岡城の荒木村重が守将として花隈城に入っていたが、別所長治に続き信長に叛き・三木城攻めが始まると
明要寺跡東谷向いに唯一?の井戸及び四方石積の残る旧池跡別所方に味方した。三木籠城の軍を支援する為:毛利軍からの兵糧等物資輸送の補給基地として梶原景行が守る高砂城や魚住城には吉川元春・小早川隆景が入り加古川を遡上・美嚢川からの兵糧輸送は早々?基地の高砂城等は秀吉方の攻撃に落城し
谷底へ幾重にも連続する曲輪群:此の切岸下から凡そW(20m)xD(100m)の長い平坦地が延びるルートは閉鎖された。次回:丹生山 Ⅲでは毛利の援軍・荒木村重と花熊城に入っていた傭兵:雑賀衆・根来衆や一向宗徒や僧兵らが、明要寺を城郭化して籠城し三木城への兵糧輸送に携わった丹生山城を…
丹生神社本殿南尾根筋:段曲輪群(5段程だが更に下方は…?未確認) (郷土の城ものがたり・ひょうごの城紀行・現地案内板…人名等Wikipedia参照)
丹生山明要寺跡(丹生山城南部)
明要寺跡北面と東面(一折する石積箇所も!?)石垣仏具・経典等を献上した日本仏教伝来以前の古社であること等・丹生神社の由緒について触れたが… …源平合戦では元暦2年(1185)京を発ち京街道を進み丹波道の現:篠山市入った。義経伝説の笛吹山・其の従者:鷲尾三郎経春(義久)・伊勢三郎義盛の供養碑/那須与一所縁の瑞祥寺等に関する伝承が彼方此方に残る。
明要寺跡:北石垣下の三社権現社?祠 上端部に丹生神社鳥居播磨三草山の合戦に次ぎ、一の谷の戦いで名を馳せた”鵯越え”の「義経道」伝説が残る。一ノ谷へと先導したのが北区山田町出身ともされる鷲尾三郎:丹生神社は明要寺城郭化した…丹生山城ともなった。衝原や坂本から丹生山を目指す登山者の多くは丹生神社から帝釈山-稚児ヶ墓山・花折山への縦走や志久ノ峠を淡河町へ、
丹生神社鳥居と右手登山道との分岐または丹生山からシビレ山を経由して志染町・淡河城側の道の駅にとる。此処からが本題の丹生山城多くの僧兵を抱え一大勢力と数多くの堂宇・伽藍を持つ丹生山明要寺は暦応元年(1338)後醍醐天皇・楠木正成ら南朝方の拠点として:
登山道の左に丹生山明要寺僧徒関連の宝篋印塔・墓石:右の谷側にも石仏・五輪塔群を見る柏尾城・金剛童子砦・花折砦・稚児ヶ墓山城…に塞城を構えていた新田義貞臣(新田氏一族庶流)金谷(治部大輔)経氏が僧兵等をたより丹生山明要寺を城郭化し守将:吉川八郎兵衛尉経清等が拠っていた。淡河城主も南朝方に付き播磨守護:赤松則村(円心)と戦い、暦応2年(1339)志染に陣を敷いた則祐(則村の三男)軍による明要寺攻め・
明要寺跡南東下曲輪の土留め石積(高い切岸上部)淡河・石峰寺・三津田の合戦に落城している。天正6年(1578)秀吉による三木合戦の折、毛利攻めの前戦基地として信長命で築かれ伊丹有岡城の荒木村重が守将として花隈城に入っていたが、別所長治に続き信長に叛き・三木城攻めが始まると
明要寺跡東谷向いに唯一?の井戸及び四方石積の残る旧池跡別所方に味方した。三木籠城の軍を支援する為:毛利軍からの兵糧等物資輸送の補給基地として梶原景行が守る高砂城や魚住城には吉川元春・小早川隆景が入り加古川を遡上・美嚢川からの兵糧輸送は早々?基地の高砂城等は秀吉方の攻撃に落城し
谷底へ幾重にも連続する曲輪群:此の切岸下から凡そW(20m)xD(100m)の長い平坦地が延びるルートは閉鎖された。次回:丹生山 Ⅲでは毛利の援軍・荒木村重と花熊城に入っていた傭兵:雑賀衆・根来衆や一向宗徒や僧兵らが、明要寺を城郭化して籠城し三木城への兵糧輸送に携わった丹生山城を…
丹生神社本殿南尾根筋:段曲輪群(5段程だが更に下方は…?未確認) (郷土の城ものがたり・ひょうごの城紀行・現地案内板…人名等Wikipedia参照)
丹生山明要寺跡(丹生山城南部)
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