平田村山ノ上付城と平田・加佐境ノ付城 三木市
北播磨にも加西市の鶉野飛行場(姫路海軍航空隊:紫電改)・加東市にグライダー基地(滋賀海軍航空隊戦闘機・秋水訓練嬉野飛行場)・加古川市に加古川(尾上)飛行場(日本陸軍:九七式戦闘機)・三木市にも三木飛行場(相野飛行場)があった。
平田・加佐境ノ付城主曲輪(西端の櫓台曲輪?)三木市郷土史家で「三木飛行場を記憶する会」主催M氏により三木城側”鷹尾山城と宮ノ上要害”の南へ抜ける:三木山総合公園-三木山森林公園間車道は:土橋で隔てる谷であったこと、秀吉方の近く:八幡谷・二位谷や君ヶ峰の羽柴秀長陣があるが双方の最前線で在ったと聞く。
平田・加佐境ノ付城主曲輪部東端テープ!(平田村山ノ上付城へ分岐点付近)続いて山陽自動車道三木SAから平田村山ノ上付城までの尾根続きを案内していただく。山陽自動車道建設工事に先立ち此の三木SA予定地にある加佐山城(加佐山上の塁)は発掘調査後消滅した…が、三木城包囲の30数ヶ所?あった付城の中でも慈眼寺山裏城(守将:有馬法印則頼)ともに標高の最も高い位置に築かれていた。
三木SA立寄駐車場入口向かいの階段がスタート地点慶長元年(1596)には三木城代となった杉原(伯耆守)七郎左衛門家次秀吉の家老が加佐山城の守将。加佐山城・慈眼寺山城は2008年に、大村城(別所一族の大村九郎左衛門治吉の城だった)・さつき園近く:平田村付城(守将:吉田庄左衛門)…等は2006年に寄り、谷大膳の墓所にも詣ったが・背後に延びる山道に
平田村山ノ上付城との中間地点にある単郭だが広い方形曲輪北東面の崖(切岸?)長い土塁道?が続くのを確認はしたが、平田村山ノ上付城に続く道とも知らず…深い雑木藪と棘木に退散した…遺跡地図等見直しても大村城・大村山上の付城や平田山城・平田山上の付城やxxの塁…?等について所在位置を確認せず平田村付城も平田山上の付城も「兵庫の山城(阪神・淡路)」リストに空白状態のまま!!?…
平田・加佐境ノ付け城:主尾根上の2段?曲輪今回:三木SAから平田村付城(守将:吉田庄左衛門)・谷大膳亮衛好の墓所か養護老人ホーム!の降りる尾根筋上に平田山上の付城(平田山城)(守将:古田馬之介)があるが、SA駐車場に入る車道を挟んだ南の階段(フエンスが切れる直ぐ上迄)から先の尾根西先端部に平坦地(4-5段程の曲輪)・曲輪端の低土塁とも思えない
平田山上の付城:削り残し土塁!?向かい下部が主郭(東南尾根筋より)盛上がり部分もあるが、平田村山ノ上付城間の尾根筋に兵を留めたと思える又は兵を移動させた?自然地形だが広い平坦段も数ヶ所点在するので纏めて平田・加佐境ノ付け城(三木市加佐・平田)とする。「平田・加佐境ノ付け城」主曲輪群を4-50m程引返し”平田村山ノ上付城”へと南方へ延びる尾根に移るが
平田山上の付城:土塁から中程下部主曲輪への尾根筋両端も土塁!?)雑木藪・倒木を避けての尾根筋に先行するM氏による”鉈目”を追ってのトレースながら骨が折れるが、7-80m間隔で1-2個の曲輪(平坦段)が3ヶ所ほどに散存する。表面観察で確認出来る曲輪も画像では判り難い。平田村山ノ上付城は中央曲輪拡張に尾根筋を削り土塁状の高まりを残し、
平田大村加佐合戦場慰霊碑と淡河弾正の墓(八幡森史跡公園)主尾根筋東西と中央郭から北へ延びる枝尾根上にも長い削平段があるが何れも切岸は曖昧・主尾根も踏跡程度で主曲輪を繋ぐ南北の山道は調査が入った際の登山道か?。加佐村の塁・加佐山城・平田村付城・平田村山ノ上付城・大村山上ノ付城…等々は:秀吉軍による三木合戦”天正6年(1578年)-3月~天正8年1月)に三木城を包囲し
谷大膳亮衛好の墓所:平田山陣所跡毛利の援軍等による三木城への兵糧補給路を絶つ為に築かれた付城群の一つ。平田大村合戦は断たれた補給ルート奪還のため天正7年(1579)9月10日:手薄の”平田の砦”に毛利の援軍が夜襲をかけ、織田軍の谷大膳亮衛好らが奮戦したが10日の黎明(明け方)此の地で兄・弟・甥の二人!?の谷一族五名は討死し墓碑が立つ。
平田・加佐境ノ付城(この辺り? 134m~平田村山ノ上付城手前まで!?)
平田・加佐境ノ付城主曲輪(西端の櫓台曲輪?)三木市郷土史家で「三木飛行場を記憶する会」主催M氏により三木城側”鷹尾山城と宮ノ上要害”の南へ抜ける:三木山総合公園-三木山森林公園間車道は:土橋で隔てる谷であったこと、秀吉方の近く:八幡谷・二位谷や君ヶ峰の羽柴秀長陣があるが双方の最前線で在ったと聞く。
平田・加佐境ノ付城主曲輪部東端テープ!(平田村山ノ上付城へ分岐点付近)続いて山陽自動車道三木SAから平田村山ノ上付城までの尾根続きを案内していただく。山陽自動車道建設工事に先立ち此の三木SA予定地にある加佐山城(加佐山上の塁)は発掘調査後消滅した…が、三木城包囲の30数ヶ所?あった付城の中でも慈眼寺山裏城(守将:有馬法印則頼)ともに標高の最も高い位置に築かれていた。
三木SA立寄駐車場入口向かいの階段がスタート地点慶長元年(1596)には三木城代となった杉原(伯耆守)七郎左衛門家次秀吉の家老が加佐山城の守将。加佐山城・慈眼寺山城は2008年に、大村城(別所一族の大村九郎左衛門治吉の城だった)・さつき園近く:平田村付城(守将:吉田庄左衛門)…等は2006年に寄り、谷大膳の墓所にも詣ったが・背後に延びる山道に
平田村山ノ上付城との中間地点にある単郭だが広い方形曲輪北東面の崖(切岸?)長い土塁道?が続くのを確認はしたが、平田村山ノ上付城に続く道とも知らず…深い雑木藪と棘木に退散した…遺跡地図等見直しても大村城・大村山上の付城や平田山城・平田山上の付城やxxの塁…?等について所在位置を確認せず平田村付城も平田山上の付城も「兵庫の山城(阪神・淡路)」リストに空白状態のまま!!?…
平田・加佐境ノ付け城:主尾根上の2段?曲輪今回:三木SAから平田村付城(守将:吉田庄左衛門)・谷大膳亮衛好の墓所か養護老人ホーム!の降りる尾根筋上に平田山上の付城(平田山城)(守将:古田馬之介)があるが、SA駐車場に入る車道を挟んだ南の階段(フエンスが切れる直ぐ上迄)から先の尾根西先端部に平坦地(4-5段程の曲輪)・曲輪端の低土塁とも思えない
平田山上の付城:削り残し土塁!?向かい下部が主郭(東南尾根筋より)盛上がり部分もあるが、平田村山ノ上付城間の尾根筋に兵を留めたと思える又は兵を移動させた?自然地形だが広い平坦段も数ヶ所点在するので纏めて平田・加佐境ノ付け城(三木市加佐・平田)とする。「平田・加佐境ノ付け城」主曲輪群を4-50m程引返し”平田村山ノ上付城”へと南方へ延びる尾根に移るが
平田山上の付城:土塁から中程下部主曲輪への尾根筋両端も土塁!?)雑木藪・倒木を避けての尾根筋に先行するM氏による”鉈目”を追ってのトレースながら骨が折れるが、7-80m間隔で1-2個の曲輪(平坦段)が3ヶ所ほどに散存する。表面観察で確認出来る曲輪も画像では判り難い。平田村山ノ上付城は中央曲輪拡張に尾根筋を削り土塁状の高まりを残し、
平田大村加佐合戦場慰霊碑と淡河弾正の墓(八幡森史跡公園)主尾根筋東西と中央郭から北へ延びる枝尾根上にも長い削平段があるが何れも切岸は曖昧・主尾根も踏跡程度で主曲輪を繋ぐ南北の山道は調査が入った際の登山道か?。加佐村の塁・加佐山城・平田村付城・平田村山ノ上付城・大村山上ノ付城…等々は:秀吉軍による三木合戦”天正6年(1578年)-3月~天正8年1月)に三木城を包囲し
谷大膳亮衛好の墓所:平田山陣所跡毛利の援軍等による三木城への兵糧補給路を絶つ為に築かれた付城群の一つ。平田大村合戦は断たれた補給ルート奪還のため天正7年(1579)9月10日:手薄の”平田の砦”に毛利の援軍が夜襲をかけ、織田軍の谷大膳亮衛好らが奮戦したが10日の黎明(明け方)此の地で兄・弟・甥の二人!?の谷一族五名は討死し墓碑が立つ。
平田・加佐境ノ付城(この辺り? 134m~平田村山ノ上付城手前まで!?)
この記事へのコメント