稲畑区 (見田Ⅱ)御霊神社 丹波市
稲畑地区は明治維新まで旧稲畑村・見田村に分かれており『稲畑区 實光寺に記しており』…實光寺は見田の奥谷にある。稲畑の小字名に岡本・奥谷・堀の内・谷屋・岡田・見田…等がある。加古川沿いの稲畑「錦橋東詰交差点」から穂壷城山麓に回り込むR175号からは稲畑地区に拡がる田園地帯の東端から北へ延び出した尾根筋が田園地帯に先端を落とす幅も細く衝立状の小丘陵があり、
見田の實光寺裏山から:正面丘陵山腹に光秀を祀る御霊神社其の東側:穂壷城から泉山城(泉山砦)-鴨野城(谷屋砦)から萱仮坂(「稲畑」から柏原町へ向かう県道290号)を経て高見城へと繋ぐ丘陵尾根に囲まれ狭間の集落「見田」を"ミタではなく"気付かずまま通り過ぎる人が多いのでは…?。R175号稲畑地区の東端を南北に低丘陵が横たわる。丘陵南端部は県道290号が萱刈坂を鴨野・新井を抜け柏原町に向かう。萱刈坂を南へ続く尾根筋は高見城へ、
最北部の穂壷城から妙見砦・観音寺砦・泉山城(中央右のピーク)・東鴨野城を繋ぐ低丘陵北へは東鴨野城・泉山城・観音寺砦・妙見砦…へと長い防波堤のように延びて穂壺城でR175と柏原川合流点に落ちる。加古川沿いに低く細長く伸びる丘陵尾根の枝尾根が稲畑集落側に膨らみ旧見田集落間の田園地帯に先端を落とす。此処に昨年終了した大河ドラマ「麒麟がくる」の”明智光秀ゆかり…”PR幟旗が立つ”Google Map”を見て、どの様な所縁があったのか…?と遅ればせながら
御霊神社参道入口:泉山城の家臣屋敷や谷屋敷跡か?「見田」村を訪ね先のブログに期した實光寺だが、”明智光秀ゆかり…”は東端の穂壷城から南へ延びる尾根筋麓に位置する稲畑「御霊神社(見田の大歳神社?)」にある。以前より気に掛けていた矢降神社(高見城山に祀られていたが落城で焼失・祭祀場所を決めるのに山頂より三本の矢を放ち・矢が落ちた所を社地とした伝承)が旧城下の佐野・稲畑・見田に矢降大明神として祀られる。
明智光秀を祀る御霊神社其の一が實光寺の真東に位置するのが見田の大歳神社か?。円通寺末の實光寺だが春日町黒井・興禅寺末ともあり千丈寺(千丈寺砦南西山麓の赤井家墓所)跡の地名も残る。和泉山の泉山城・鴨野城(谷屋砦)は建武年間の一時期:高見城(佐野城)仁木頼章の弟:仁木四郎源(和泉守)義長が城主として在城し谷垣氏を称したと伝えられ、實光寺に祀られる稲畑谷垣氏の遠粗とされる。
”堀の内”は北方の穂壷城西麓辺りか?。”谷屋”は”谷屋敷や谷垣殿”と呼ばれる所在・字名か…?。その谷屋敷殿の家老屋敷も稲畑地区に散存していた様!?。實光寺の真東に位置して見田の大歳神社か?:御霊神社が祀られる。高見城・穂壷城…等明智軍の丹波攻めに落城・四散した百姓村民らに対し、戦後処理として城下の復興・活性化を促すため「地子銭(税)」の免除特権を与えて民衆の支持を得たのは:
秀吉の三木城落城後や光秀が横山城(福知山城前身)落城後福知山城築城の際に行なったのと同様。また弘浪山(高山城)にあった梵鐘を柏原八幡神社(光秀の陣城:八幡山城築造で取り壊されたが天正10年秀吉の臣:堀尾吉晴を奉行に祈願所として修復された)に運んだのが稲畑の人々だったと…。戦後:丹波一国守護となった光秀により「地子銭(税)」の免除や・梵鐘運搬には報償を与えられたものか!?
御霊神社上の尾根筋:手前に片堀切状?稲畑見田の泉砦に繋がる?尾根先に祀られる小さな祠は明智光秀に霊を弔う御霊神社で見田の地区有志4人ほどで奉斎されているようで、例祭日も福知山市の御霊神社と同日。丘部中腹部に鎮まる「御霊神社」周辺の広い平坦段や泉山砦・観音寺砦・妙見砦…に繋がる主尾根筋に左右(南北)に見る曲輪?・片堀切状…は城郭類似遺構と思うが一帯を未トレース・地方紙誌・郡史等詳細未調査・未確認。
御霊神社裏の尾根北斜面曲輪段 「丹波史」「丹波氷上郡志」を参照
見田の實光寺裏山から:正面丘陵山腹に光秀を祀る御霊神社其の東側:穂壷城から泉山城(泉山砦)-鴨野城(谷屋砦)から萱仮坂(「稲畑」から柏原町へ向かう県道290号)を経て高見城へと繋ぐ丘陵尾根に囲まれ狭間の集落「見田」を"ミタではなく"気付かずまま通り過ぎる人が多いのでは…?。R175号稲畑地区の東端を南北に低丘陵が横たわる。丘陵南端部は県道290号が萱刈坂を鴨野・新井を抜け柏原町に向かう。萱刈坂を南へ続く尾根筋は高見城へ、
最北部の穂壷城から妙見砦・観音寺砦・泉山城(中央右のピーク)・東鴨野城を繋ぐ低丘陵北へは東鴨野城・泉山城・観音寺砦・妙見砦…へと長い防波堤のように延びて穂壺城でR175と柏原川合流点に落ちる。加古川沿いに低く細長く伸びる丘陵尾根の枝尾根が稲畑集落側に膨らみ旧見田集落間の田園地帯に先端を落とす。此処に昨年終了した大河ドラマ「麒麟がくる」の”明智光秀ゆかり…”PR幟旗が立つ”Google Map”を見て、どの様な所縁があったのか…?と遅ればせながら
御霊神社参道入口:泉山城の家臣屋敷や谷屋敷跡か?「見田」村を訪ね先のブログに期した實光寺だが、”明智光秀ゆかり…”は東端の穂壷城から南へ延びる尾根筋麓に位置する稲畑「御霊神社(見田の大歳神社?)」にある。以前より気に掛けていた矢降神社(高見城山に祀られていたが落城で焼失・祭祀場所を決めるのに山頂より三本の矢を放ち・矢が落ちた所を社地とした伝承)が旧城下の佐野・稲畑・見田に矢降大明神として祀られる。
明智光秀を祀る御霊神社其の一が實光寺の真東に位置するのが見田の大歳神社か?。円通寺末の實光寺だが春日町黒井・興禅寺末ともあり千丈寺(千丈寺砦南西山麓の赤井家墓所)跡の地名も残る。和泉山の泉山城・鴨野城(谷屋砦)は建武年間の一時期:高見城(佐野城)仁木頼章の弟:仁木四郎源(和泉守)義長が城主として在城し谷垣氏を称したと伝えられ、實光寺に祀られる稲畑谷垣氏の遠粗とされる。
”堀の内”は北方の穂壷城西麓辺りか?。”谷屋”は”谷屋敷や谷垣殿”と呼ばれる所在・字名か…?。その谷屋敷殿の家老屋敷も稲畑地区に散存していた様!?。實光寺の真東に位置して見田の大歳神社か?:御霊神社が祀られる。高見城・穂壷城…等明智軍の丹波攻めに落城・四散した百姓村民らに対し、戦後処理として城下の復興・活性化を促すため「地子銭(税)」の免除特権を与えて民衆の支持を得たのは:
秀吉の三木城落城後や光秀が横山城(福知山城前身)落城後福知山城築城の際に行なったのと同様。また弘浪山(高山城)にあった梵鐘を柏原八幡神社(光秀の陣城:八幡山城築造で取り壊されたが天正10年秀吉の臣:堀尾吉晴を奉行に祈願所として修復された)に運んだのが稲畑の人々だったと…。戦後:丹波一国守護となった光秀により「地子銭(税)」の免除や・梵鐘運搬には報償を与えられたものか!?
御霊神社上の尾根筋:手前に片堀切状?稲畑見田の泉砦に繋がる?尾根先に祀られる小さな祠は明智光秀に霊を弔う御霊神社で見田の地区有志4人ほどで奉斎されているようで、例祭日も福知山市の御霊神社と同日。丘部中腹部に鎮まる「御霊神社」周辺の広い平坦段や泉山砦・観音寺砦・妙見砦…に繋がる主尾根筋に左右(南北)に見る曲輪?・片堀切状…は城郭類似遺構と思うが一帯を未トレース・地方紙誌・郡史等詳細未調査・未確認。
御霊神社裏の尾根北斜面曲輪段 「丹波史」「丹波氷上郡志」を参照
この記事へのコメント