妙高山東城 と妙高山砦(城郭類似) 丹波市

妙高山東城(仮称) Ⅰ神池寺では養老2年(718)法道仙人開基を伝え・貞観元年(859)には天台宗道場として隆盛も高まった神池寺の歴史・由緒について:妙高山東城(仮称) Ⅱ 肩切り地蔵(伝承)では貞観2年(860:平安時代)…!と具体的だが、門前町として栄え・茶屋が軒を並べていた神池寺門前町湯谷(市島町鴨庄北奥から県道541号に入り神池分岐を右に入った塚原の更に奥地!?・集落内を流れる谷が湯谷ノ谷)上流の
     神池寺本堂横の春日神社旧跡?(行者堂の狛犬!?)
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神池寺(含め一帯が現:市島町多利)だが他にもいくつかの参詣道があって、物語の茶屋の女は市島町鴨庄側・男は春日町三井庄の男。妙高山頂東の鞍部に三井庄・野上野への道標石仏があり三井庄側は山麓に大路小学校・深尾須磨子生家がある…山麓の竹田川沿いLOCASSE TAMBA付近からは鹿野から此の妙高山東鞍部へ、更に妙高山頂(妙高山権現を祀る)か山腹を巻き春日町多利・野上野へも稜線伝いの
  神池寺道・妙高山東城・三井庄(手前右下)・野上野(山腹を捲く道標石仏から……
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参道も通じていたよう!。元弘3・正慶2年(1333)後醍醐天皇が船上山(鳥取県東伯郡)で鎌倉幕府討伐再起の挙兵に大塔宮護良親王(後醍醐天皇の皇子)も神池寺宗徒(堂衆)に論旨?か令旨(親王の命を伝える文書)錦旗を授け挙兵に呼応。この時は政敵足利尊氏も後醍醐天皇方に付き篠村に挙兵。氷上町葛野荘の地頭荻野朝忠(ともただ)も千種忠顕に従って北条氏一門の仲時ら六波羅探題に攻め入ったが敗走。
   妙高山東城:曲輪南西切岸下に畝状竪堀群が並ぶ
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丹波に退き森山城の本庄氏?・児島高徳・らの敗軍を集めて氷上町の弘浪山(高山寺城)の立て籠った記述がある。古来より神池寺へ通じる参詣道は北方に鴨庄から塚原・市島町多利、南からは三井庄や鹿野から、西方は春日町多利・野上野や柚津からも尾根伝いに妙高山頂(奥の院!)から神池寺へと通じている。
     堀切・竪土塁状から主曲輪群に入る
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元弘3年(1333)神池寺衆徒八十余騎は五條西洞院で六波羅軍300余騎に包囲され全滅……悲運だったが、建武中興(建武の新政)成ったのは其の僅か2ヶ月ばかり後の事。神池寺堂宇の殆どは兵火に遭い・更に天正6年(1578)明智光秀による第2回黒井城攻略の際にも兵乱の災禍に堂宇を消失した。
  堀切を越えた曲輪切岸南西斜面に並ぶ畝状竪堀群
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妙高山東城(仮称)は妙高山頂から神池寺・三井庄へ下る分岐鞍部からの尾根続き東の峰にあるが築城目的・時期・城主等城史等資料もなく一切不明の中世城郭。黒井城砦群の一か?・明智勢傘下の某部将が拠った付城の一か?。妙高山頂にも妙高山砦(城郭類似遺構)があり黒井城監視砦と思えるが城郭類似遺構で割愛する。
   曲輪東南端部に横堀・竪堀・畝状複合遺構がある!!
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妙高山の南山麓:竹田川沿いを東へは篠山市境の栗柄峠に至り、春日町国領柚津鹿場三井庄に掛けては南正面に望む三尾山城の支城群があり、国領から西方に延び棚原野村・殊に茶臼山城黒井城の南正面に位置する陣城・更に西1.5kmには赤井直正(幼名:才丸)が荻野姓として初着任した朝日城も陣城として大きく改変され一帯の黒井城砦群は悉く……が黒井城攻略の付城群となっている。
      曲輪北東部:空堀と竪堀・土塁を組み合わせた様な複合遺構がある!!
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黒井城砦群で落城後に向城に転用されたと思われる城砦群は妙高山北方の市島町鴨庄(北奥・上牧・喜多)から梶原・小多利・多利……へと福知山から小野木重勝・上竹田・勅使からの明智光春や京:千束街道からの藤田伝吾の侵攻ルートに合わせたように日内城・西山城・岩倉城・長谷山城……等黒井城砦群は明智方の向城転用砦が多く妙高山北の丘陵上(梶原・小多利境)の畑山城館・矢谷城館天ヶ岳城(仮称)
      曲輪南東角付近:4-5本の竪堀を括る様なフオーク状畝状竪堀も……!!
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妙高山東城(仮称)と呼応し、妙高山西尾根続き先端峰にある野上野城等も小富士城を陣城とした明智方の向城として、縄張りからは織田・明智について京丹波方面から参戦した部将等が改修し拠ったものか?。近く:鴨庄の長谷山城・上牧城(仮称)にも丹波市内に珍しい畝状竪堀群が妙高山東城(東西150m・南北50m程の城域)の南面斜面に遺る。夥しい竪堀群(20数本)を観る。春日町三井庄からの攻撃に対処したものか?。
  妙高山東城(仮称):主曲輪を南に回り込み虎口受け曲輪から五輪塔檀の中央郭に入る
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城域北面を東方へ数条の短い竪堀と浅くなっているが竪堀を繋ぐ横堀や竪土塁をL字状に組合わせたような形状が集中して構築されている。神池寺から妙高山山頂の奥に院に通じる参道や同尾根筋に取付く攻撃に備えたものか?。城域中央の主郭には幅2-3mの方形土壇上には五輪塔が祀られ、東1-2段下の食違い虎口!?曲輪から主曲輪に入る。
   妙高山山頂の権現社燈籠
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常駐意識の砦ではなさそうなので西尾根伝いに黒井城東山麓の野上野や多利から多田へと傾れ込む織田方の陣城?・駐屯?地だったのでしょうか?。激戦があった史実は不明・宝篋印塔でも卵塔でもないので高僧の供養塔とも思えず?。「建武の新政」の礎とはなったが五條西洞院で六波羅軍300余騎に包囲され全滅…した無念の神池寺衆徒八十余騎の供養塔か?
    妙高山東城中央部曲輪内に石列・五輪塔(上部中央右より立木の側)
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市島町下竹田「鎌倉山 清薗寺」は用命天皇(崩御の587年)皇子麻呂子親王開基で此処にも大江山鬼退治伝承がある。蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし崇峻天皇を擁立したが其の崇峻天皇も馬子が暗殺している…!!?。軍を進める麻呂子親王が休んだとする”腰掛け岩?”伝承も神池寺南山麓の三井庄にあるが、神池寺にも伝承はあると云う!?。鎌倉幕府を倒した護良親王との伝承が混在しているのかな…?
    妙高山頂(手前右に奥の院?石積祠の礎檀・北斜面・西尾根続きにも曲輪様の平坦地形……)
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この記事へのコメント

2022年11月30日 16:16
こんにちわ。
ウエブリグログの「たんば&せっつ」のto_ryouです。大変長らくのご無沙汰です。もうお忘れかも知れませんが、たぬきさんや山あそさん達と山歩きをした者です。
近々にウエブリグログが閉鎖されることになり、私はseesaaブログに移転しましたが、「丹波霧の里ブログ」がどうされるのか気になりました。
丹波に縁があって「丹波霧の里ブログ」の山関係(山城など)ことで今まで記事の参考にさせて頂いたことがありました。
ウエブリグログ閉鎖後どうされるのか心配になり、コメントさせて貰いました。突然の事で失礼しました。
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天々宇知栗
2022年12月03日 22:01
to_ryouさん こんばんわ…(●^_^●)
神河町の山行以来ですかね ご無沙汰です…が忘れちゃいませんよ… 丹波市和田の 別荘での 創作活動に精出されていますか?  西宮との往復も大変ですが そのぶん 山旅の範囲も広がりますかね!

先日は綾部の 三郡山  今日は丹波市春日町野上野の 無名峰4等三角点ですが 桂谷寺の尾根続きの奥山で同寺の山号「照月山」を付加したいが どちらも山城跡
前者は八木城主内藤宗勝の終焉地で今調査中の和籐合戦の合戦場とその陣城
後者は天正6年第二回黒井城攻め 黒井城直近の明智光秀方の最前線付城
いずれも 地元でも知られていない存在の城砦だけに 調査等UPまでに時間が…かかる

ブログの件データー量が莫大なので to_ryouさん同様 seesaaブログに移転するつもりですが 少し整理する必要もあって登録を未だ済ませていませんが 近々…(-_-;)
 
鬼も笑う来年以降の木工(アートクラフト)展 出展や出店 を期待しています 本日はコメントありがとうございます 

>ウエブリグログの「たんば&せっつ」のto_ryouです。大変長らくのご無沙汰です。もうお忘れかも知れませんが、たぬきさんや山あそさん達と山歩きをした者です。
>近々にウエブリグログが閉鎖されることになり、私はseesaaブログに移転しましたが、「丹波霧の里ブログ」がどうされるのか気になりました。
>丹波に縁があって「丹波霧の里ブログ」の山関係(山城など)ことで今まで記事の参考にさせて頂いたことがありました。
>ウエブリグログ閉鎖後どうされるのか心配になり、コメントさせて貰いました。突然の事で失礼しました。
>.
2022年12月04日 17:08
天々宇知栗さん。
ご回答ありがとうございました。
これで一安心です。

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