栗柄峠Ⅴ 栗柄東砦・栗柄南城(1) 篠山市
栗柄峠-鼓峠の京都府三和町・丹波市との分岐地点は谷中分水界(栗柄峠 Ⅰ)だが京・丹波・但馬を結ぶ街道の要衝でもある。宮田川が篠山市街地の南へ流れ出る加古川水系だが、宮田川へ流れ出る筈?の杉ヶ谷川が栗柄峠の観音堂(栗柄峠 Ⅱ)近くで
宮田川:左に栗柄南城・正面に福徳貴寺背後の御在所山・右に栗柄砦北へ突如流れを変える河川争奪地形が観られ、滝ノ尻川となり”倶利伽羅不動の滝”(栗柄峠 Ⅲ)へ落ち県道69号(春日栗柄線)沿いに丹波市側・竹田川に流れ出て由良川・若狭湾へと流れ出る。但馬・丹波・京都へと分岐する栗柄峠の要衝地に監視等城砦は栗柄砦(栗柄峠 Ⅳ)が知られているだけ!?。
栗柄ダムサイトへの509号(桑原・菟原に通じる)と栗柄東砦
栗柄峠は天正4年(1576)の黒井城攻略に際し篠山:八上城主波多野氏の突然の謀反「赤井の呼び込み戦法」に、明智光秀は不意を突かれ丹波市春日町から栗柄峠-鼓峠を越え京丹波:三和町から園部・亀岡へと命辛々逃げ帰った敗走したルート。
栗柄東砦:コミセン東側に落ちる竪堀栗柄峠が多紀郡(篠山市)・氷上郡(丹波市)郡境界の分断を図る鐘ヶ坂の金山城同様:要衝監視の重要地点として栗柄砦を築いたものと推察するが、栗柄峠を挟んで呼応する位置にある?栗柄東砦(仮称)の関連は不詳。城域の尾根筋南曲輪下の横堀から山麓のコミュニティーセンタ側近くまで長い竪堀を落としている。
栗柄東砦:竪堀の上部は横堀で尾根筋まで延びる(尾根筋堀切?は未確認)尾根続き東に堀切はなさそう(未調査)だが西の数段小曲輪上には北面から西尾根上に土塁を廻し中央に何か?の記念石碑が建つ。一段高く広い土壇!?の南端にはサイレン塔(昼夜の時報チャイム等:現稼働中)施設が建つ。
栗柄東砦:横堀から竪堀となり落込む(手前)辺り南曲輪と主曲輪(最上部)曲輪からは緩斜面をそのまま西尾根筋に同化して下る。西尾根筋の古墓地址から少し下った処に細見家墓地・墓参道が麓の猪垣フエンス開閉口の作業小屋前に、フエンス沿いはコミセン横や集落に抜けるよう?。
土塁囲いの主曲輪中央に祭祀(稲荷?)祈念碑宮田荘は貞観年間(859-77)藤原良房の所領以来:摂関家渡領となり鎌倉時代初期より近衛家領として新補地頭が置かれたが、摂関家の威を借り隣接する東寺領大山荘を圧迫。貞応2年(1223)地頭石川某を罷免して以後は地頭が置かなかった。
櫓台幅広土塁:左端(西南端)はサイレン塔(チャイム…)の脚部貞応2年(1223)地頭石川某を罷免して以後:近衛家領宮田荘に地頭職は置かなかったが正安3年(1301)不法により公文職を罷免された掃部某が悪党となり栗柄村に入り夜討ち強盗を行ない宮田荘に乱入・嘉元4年(1306)には一族徒党300余を率いて城さえ構えた…とある。
栗柄東砦:主曲輪を囲む土塁北東端・北面に帯曲?・509号(右上)を俯瞰 栗柄東砦・栗柄南城(仮称):2に続く
宮田川:左に栗柄南城・正面に福徳貴寺背後の御在所山・右に栗柄砦北へ突如流れを変える河川争奪地形が観られ、滝ノ尻川となり”倶利伽羅不動の滝”(栗柄峠 Ⅲ)へ落ち県道69号(春日栗柄線)沿いに丹波市側・竹田川に流れ出て由良川・若狭湾へと流れ出る。但馬・丹波・京都へと分岐する栗柄峠の要衝地に監視等城砦は栗柄砦(栗柄峠 Ⅳ)が知られているだけ!?。
栗柄ダムサイトへの509号(桑原・菟原に通じる)と栗柄東砦
栗柄峠は天正4年(1576)の黒井城攻略に際し篠山:八上城主波多野氏の突然の謀反「赤井の呼び込み戦法」に、明智光秀は不意を突かれ丹波市春日町から栗柄峠-鼓峠を越え京丹波:三和町から園部・亀岡へと命辛々逃げ帰った敗走したルート。
栗柄東砦:コミセン東側に落ちる竪堀栗柄峠が多紀郡(篠山市)・氷上郡(丹波市)郡境界の分断を図る鐘ヶ坂の金山城同様:要衝監視の重要地点として栗柄砦を築いたものと推察するが、栗柄峠を挟んで呼応する位置にある?栗柄東砦(仮称)の関連は不詳。城域の尾根筋南曲輪下の横堀から山麓のコミュニティーセンタ側近くまで長い竪堀を落としている。
栗柄東砦:竪堀の上部は横堀で尾根筋まで延びる(尾根筋堀切?は未確認)尾根続き東に堀切はなさそう(未調査)だが西の数段小曲輪上には北面から西尾根上に土塁を廻し中央に何か?の記念石碑が建つ。一段高く広い土壇!?の南端にはサイレン塔(昼夜の時報チャイム等:現稼働中)施設が建つ。
栗柄東砦:横堀から竪堀となり落込む(手前)辺り南曲輪と主曲輪(最上部)曲輪からは緩斜面をそのまま西尾根筋に同化して下る。西尾根筋の古墓地址から少し下った処に細見家墓地・墓参道が麓の猪垣フエンス開閉口の作業小屋前に、フエンス沿いはコミセン横や集落に抜けるよう?。
土塁囲いの主曲輪中央に祭祀(稲荷?)祈念碑宮田荘は貞観年間(859-77)藤原良房の所領以来:摂関家渡領となり鎌倉時代初期より近衛家領として新補地頭が置かれたが、摂関家の威を借り隣接する東寺領大山荘を圧迫。貞応2年(1223)地頭石川某を罷免して以後は地頭が置かなかった。
櫓台幅広土塁:左端(西南端)はサイレン塔(チャイム…)の脚部貞応2年(1223)地頭石川某を罷免して以後:近衛家領宮田荘に地頭職は置かなかったが正安3年(1301)不法により公文職を罷免された掃部某が悪党となり栗柄村に入り夜討ち強盗を行ない宮田荘に乱入・嘉元4年(1306)には一族徒党300余を率いて城さえ構えた…とある。
栗柄東砦:主曲輪を囲む土塁北東端・北面に帯曲?・509号(右上)を俯瞰 栗柄東砦・栗柄南城(仮称):2に続く
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