栗柄峠Ⅵ 栗柄東砦・栗柄南城(2) 篠山市
栗柄峠Ⅴより続く 栗柄東砦(仮称)と栗柄南城(西ヶ嶽国次谷城:仮称)は篠山市街地から宮田川沿い県道97号・丹波市春日町側からの県道69号が合流する栗柄峠を正面間近に、北面を県道509号が桑原・本郷・草山温泉や箱部峠をR9号「菟原」へも通じ、要衝三ルートが山麓を通過する要衝監視砦としては絶妙の位置にある。此の509号ルートこそ光秀が草山温泉から友渕へ
栗柄峠:観音堂側から栗柄南城と多紀アルプス西ヶ嶽
「福地山城攻めの際の陣城西の古城・東の古城」が逃れた道か?。…しかし栗柄峠から春日町側にルートが開かれてのは江戸時代初期:光秀が京へ抜けた道は栢野~野瀬から桑原への峠越えか?:草山から三和・友渕へ…ではないだろうか?。栢野で二手に分れ鼓峠(69号)へは高坂ルート等?をとった堀部兵太夫が光秀の影武者となり波多野氏方の畑牛の丞・細見将監らの待伏せに遭い討たれたか。
梶ヶ谷を詰めた尾根続き南端の堀切
近年まで兵太塚と古戦場説明板もあったが現状は不詳?。栗柄東砦は栗柄峠Ⅴで触れているが…栗柄南城も栗柄峠南正面の丘陵尾根先付近にあって山裾北面を宮田川が自然の濠となって流れる。栗柄集落南入口の西ヶ嶽登山口と八柱神社付近から愛染窟を経由して西ヶ嶽に至る御嶽修験道?との粗中央付近:574m峰から北へ延び出す尾根先の主郭部350mに二本の土橋付き堀切・尾根続き
古い縄張りに突然現われる二重堀切!!背後も浅くなった堀切が一本あるが技巧的な縄張・構造を見ない…が二重堀切に後の支配者により改修の手が加わっているのかも!?。応安年間(1368-75)山名氏が丹波守護を得て板井城はじめ多くの城砦群を築き、明徳の乱に山名氏清の敗死後応永年間(1394-1428)丹波守護:細川氏の支配するところとなる。
栗柄南城:二重堀切の北に主曲輪(東西15x南北28m程)宮田荘の北奥は高坂・倉本までが荘域、宮田山を山号とする福徳貴寺の坂本?や最奥部の栗柄は宮田荘内だが葛川明王院の所領として宮田荘とは領主・官吏を異にしており、永正元年(1504)「明王院文書」によると大山荘地頭:中沢元基が年契約で請切している。永正5年(1508)細川氏内乱に「細川澄元派に中沢氏・酒井氏一党:
北先端へ数段小曲輪が続く細川高国派に波多野氏・波々伯部氏・大芋氏」起因する福徳貴寺合戦により堂宇悉く消失した。なお此の合戦に澄元派は敗れ中沢氏支配の大山荘は滅亡・代官職を罷免された。福徳貴寺南西丘陵上に城砦遺構があるが(未訪)、栗柄南城(西ヶ嶽国次谷城)ともに此の合戦に波多野氏側?か中沢氏側?が使用したかは<古文書等:記録や伝承等の検証も出来ていないが城砦遺構が遺る。
二重堀切を再見して梶ヶ谷側へ下る(山麓は猪垣が廻る)
栗柄東砦が栗柄砦と呼応する明智方のものか?・波多野氏勢か?・更に時代を遡って宮田荘内だが葛川明王院の所領として領主・官吏を異にした「明王院文書」によると大山荘地頭:中沢元基が年契約で請切していた中沢氏の見張所か?。氷上(丹波市)春日町ー栗柄峠ルートが拓かれる以前なら栢野の大門から福徳貴寺や高坂道・栢野-野瀬から点名:杉谷~尾根伝いに栗柄峠か現:杉ヶ谷を栗柄ダムに至る県道509号があるが、篠山市街地・本郷方面いずれに向かうにも遠いだけ!!
栗柄南城

栗柄峠:観音堂側から栗柄南城と多紀アルプス西ヶ嶽
「福地山城攻めの際の陣城西の古城・東の古城」が逃れた道か?。…しかし栗柄峠から春日町側にルートが開かれてのは江戸時代初期:光秀が京へ抜けた道は栢野~野瀬から桑原への峠越えか?:草山から三和・友渕へ…ではないだろうか?。栢野で二手に分れ鼓峠(69号)へは高坂ルート等?をとった堀部兵太夫が光秀の影武者となり波多野氏方の畑牛の丞・細見将監らの待伏せに遭い討たれたか。
梶ヶ谷を詰めた尾根続き南端の堀切
近年まで兵太塚と古戦場説明板もあったが現状は不詳?。栗柄東砦は栗柄峠Ⅴで触れているが…栗柄南城も栗柄峠南正面の丘陵尾根先付近にあって山裾北面を宮田川が自然の濠となって流れる。栗柄集落南入口の西ヶ嶽登山口と八柱神社付近から愛染窟を経由して西ヶ嶽に至る御嶽修験道?との粗中央付近:574m峰から北へ延び出す尾根先の主郭部350mに二本の土橋付き堀切・尾根続き
古い縄張りに突然現われる二重堀切!!背後も浅くなった堀切が一本あるが技巧的な縄張・構造を見ない…が二重堀切に後の支配者により改修の手が加わっているのかも!?。応安年間(1368-75)山名氏が丹波守護を得て板井城はじめ多くの城砦群を築き、明徳の乱に山名氏清の敗死後応永年間(1394-1428)丹波守護:細川氏の支配するところとなる。
栗柄南城:二重堀切の北に主曲輪(東西15x南北28m程)宮田荘の北奥は高坂・倉本までが荘域、宮田山を山号とする福徳貴寺の坂本?や最奥部の栗柄は宮田荘内だが葛川明王院の所領として宮田荘とは領主・官吏を異にしており、永正元年(1504)「明王院文書」によると大山荘地頭:中沢元基が年契約で請切している。永正5年(1508)細川氏内乱に「細川澄元派に中沢氏・酒井氏一党:
北先端へ数段小曲輪が続く細川高国派に波多野氏・波々伯部氏・大芋氏」起因する福徳貴寺合戦により堂宇悉く消失した。なお此の合戦に澄元派は敗れ中沢氏支配の大山荘は滅亡・代官職を罷免された。福徳貴寺南西丘陵上に城砦遺構があるが(未訪)、栗柄南城(西ヶ嶽国次谷城)ともに此の合戦に波多野氏側?か中沢氏側?が使用したかは<古文書等:記録や伝承等の検証も出来ていないが城砦遺構が遺る。
二重堀切を再見して梶ヶ谷側へ下る(山麓は猪垣が廻る)
栗柄東砦が栗柄砦と呼応する明智方のものか?・波多野氏勢か?・更に時代を遡って宮田荘内だが葛川明王院の所領として領主・官吏を異にした「明王院文書」によると大山荘地頭:中沢元基が年契約で請切していた中沢氏の見張所か?。氷上(丹波市)春日町ー栗柄峠ルートが拓かれる以前なら栢野の大門から福徳貴寺や高坂道・栢野-野瀬から点名:杉谷~尾根伝いに栗柄峠か現:杉ヶ谷を栗柄ダムに至る県道509号があるが、篠山市街地・本郷方面いずれに向かうにも遠いだけ!!
栗柄南城
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