福徳貴寺西城 篠山市坂本
JR篠山口駅前R176号から笹山川を渡った処で県道97号(篠山三和線)を北進し、西紀地区内でも標高が尤も高い最奥の栗柄集落内の栗柄峠を目指す。県道69号(春日栗柄線)分岐栗柄峠のT字辻で「倶利伽羅不動の滝・くりから谷中分水界」の案内標識と案内板を見る。栗柄峠 Ⅰ 「谷中分水界」・栗柄峠 Ⅱ「倶利伽羅不動と観音堂」・
栗柄峠 Ⅲ 「倶利伽羅不動滝の龍伝説」で明王院のこと(延暦寺に属する天台回峰行の道場)や、県道97号宮田川を約2km下流の坂本にある宮田山福徳貴寺が天台宗比叡山延暦寺末で地名の坂本にも起因する・背後の全山が寺域で堂の峰・五在所山…鋸切山から三尾山城へと岩稜尾根が延び明王院(観音堂)ともに
福徳貴寺側に落ちる尾根東先端の堀切
山岳回峰の丹波修験の道場。倶利伽羅不動滝の龍伝説からも明王院は福徳貴寺の奥の院だった?ことを記したが、栗柄砦(明智光秀による丹波国攻略・殊に黒井城攻略に築かれた砦…!?)以外にも栗柄地区周辺に2-3の城砦遺構が残る…が遺構の残存状況や栗柄峠が篠山市・丹波市を直接結ぶ街道ではなかった?
露岩層上の小曲輪
(丹波市側からは行き止りの閉塞道だった)と思われる。宮田荘は貞観年間(859-77)藤原良房の所領となって以来:摂関家領となり鎌倉時代初期より近衛家領として新補地頭が置かれたが摂関家の威を借り隣接する東寺領大山荘を圧迫。貞応2年(1223)地頭石川某を罷免して以後:近衛家領宮田荘に地頭職は置かなかったが正安3年(1301)不法により公文職を罷免された掃部某が悪党となり栗柄村に入り夜討ち強盗を行ない宮田荘に乱入・嘉元4年(1306)には一族徒党300余を率いて城さえ構えた…といい当該砦の一つが栗柄南城ではなかったか…?。宮田荘の北奥は高坂・倉本までが荘域だが、宮田山を山号とする福徳貴寺の坂本・最奥部の栗柄は
50m程のフラットな主郭部宮田荘内だが葛川明王院の所領として宮田荘とは領主・官吏を異にしており、永正元年(1504)「明王院文書」によると大山荘地頭:中沢元基が年契約で請切している。栗柄南城は中沢氏が見張所として使用したかは不詳だが…。第31代用明天皇(在位585-87)の代に聖徳太子開基を伝え、法道仙人により中興され
主郭部の西面を捲く?帯曲輪
第36代孝徳天皇大化年間(645-50)三十五坊を数えたと云う。推古-大化年間(627-49):宮田荘が摂政「藤原良房」の所領となったとき、福徳貴寺を祈願所として荘園の名をとり「宮田山」を号し隆盛を誇った。福徳貴寺南西丘陵上に残る城砦遺構がある。栗柄南城(西ヶ嶽国次谷城)(仮称)ともに尾根上の曲輪群下部と
主郭部北端の堀切上部の一方に一条と二重堀切を設けているが、縄張りに技巧的な構造を観ない?…が”栗柄南城”の二重堀切等は後の支配者による改修の手が加わっているのかも!?。応安年間(1368-75)には山名氏が丹波守護職を得て西紀に板井城はじめ多くの城砦群を築き、明徳の乱に山名氏清の敗死後の応永年間(1394-1428)には丹波守護:細川氏の支配するところとなる。永正5年(1508)細川氏の内訌(内乱・内紛)に「細川澄元派に中沢氏・酒井氏一党:細川高国派に波多野氏・波々伯部氏・大芋氏」に起因する福徳貴寺合戦により堂宇悉く消失した。なお此の合戦に澄元派は敗れ中沢氏支配の大山荘は滅亡・代官職を罷免された。
上図の堀切土塁(曲輪?)を挟む最北部の堀切![](https://maps.googleapis.com/maps/api/staticmap?key=AIzaSyAQZUdkLscCYPCJreGcsUZDsFps-Iol_X4¢er=35.123766%2C135.203435&size=200x200&zoom=15&markers=size%3Amid%7Ccolor%3Ared%7C35.123766%2C135.203435&maptype=roadmap)
栗柄峠 Ⅲ 「倶利伽羅不動滝の龍伝説」で明王院のこと(延暦寺に属する天台回峰行の道場)や、県道97号宮田川を約2km下流の坂本にある宮田山福徳貴寺が天台宗比叡山延暦寺末で地名の坂本にも起因する・背後の全山が寺域で堂の峰・五在所山…鋸切山から三尾山城へと岩稜尾根が延び明王院(観音堂)ともに
福徳貴寺側に落ちる尾根東先端の堀切
山岳回峰の丹波修験の道場。倶利伽羅不動滝の龍伝説からも明王院は福徳貴寺の奥の院だった?ことを記したが、栗柄砦(明智光秀による丹波国攻略・殊に黒井城攻略に築かれた砦…!?)以外にも栗柄地区周辺に2-3の城砦遺構が残る…が遺構の残存状況や栗柄峠が篠山市・丹波市を直接結ぶ街道ではなかった?
露岩層上の小曲輪
(丹波市側からは行き止りの閉塞道だった)と思われる。宮田荘は貞観年間(859-77)藤原良房の所領となって以来:摂関家領となり鎌倉時代初期より近衛家領として新補地頭が置かれたが摂関家の威を借り隣接する東寺領大山荘を圧迫。貞応2年(1223)地頭石川某を罷免して以後:近衛家領宮田荘に地頭職は置かなかったが正安3年(1301)不法により公文職を罷免された掃部某が悪党となり栗柄村に入り夜討ち強盗を行ない宮田荘に乱入・嘉元4年(1306)には一族徒党300余を率いて城さえ構えた…といい当該砦の一つが栗柄南城ではなかったか…?。宮田荘の北奥は高坂・倉本までが荘域だが、宮田山を山号とする福徳貴寺の坂本・最奥部の栗柄は
50m程のフラットな主郭部宮田荘内だが葛川明王院の所領として宮田荘とは領主・官吏を異にしており、永正元年(1504)「明王院文書」によると大山荘地頭:中沢元基が年契約で請切している。栗柄南城は中沢氏が見張所として使用したかは不詳だが…。第31代用明天皇(在位585-87)の代に聖徳太子開基を伝え、法道仙人により中興され
主郭部の西面を捲く?帯曲輪
第36代孝徳天皇大化年間(645-50)三十五坊を数えたと云う。推古-大化年間(627-49):宮田荘が摂政「藤原良房」の所領となったとき、福徳貴寺を祈願所として荘園の名をとり「宮田山」を号し隆盛を誇った。福徳貴寺南西丘陵上に残る城砦遺構がある。栗柄南城(西ヶ嶽国次谷城)(仮称)ともに尾根上の曲輪群下部と
主郭部北端の堀切上部の一方に一条と二重堀切を設けているが、縄張りに技巧的な構造を観ない?…が”栗柄南城”の二重堀切等は後の支配者による改修の手が加わっているのかも!?。応安年間(1368-75)には山名氏が丹波守護職を得て西紀に板井城はじめ多くの城砦群を築き、明徳の乱に山名氏清の敗死後の応永年間(1394-1428)には丹波守護:細川氏の支配するところとなる。永正5年(1508)細川氏の内訌(内乱・内紛)に「細川澄元派に中沢氏・酒井氏一党:細川高国派に波多野氏・波々伯部氏・大芋氏」に起因する福徳貴寺合戦により堂宇悉く消失した。なお此の合戦に澄元派は敗れ中沢氏支配の大山荘は滅亡・代官職を罷免された。
上図の堀切土塁(曲輪?)を挟む最北部の堀切
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