石龕寺道「コスモスと蔵の窓」 丹波市山南町
「ヒガンバナと丹波栗」を石龕寺道に見つけてブログにUPしたが…1ヶ月ほど前までは岩屋谷川沿いに石龕寺に向かう道筋に咲いていたヒガンバナも花もスッカリ枯れ、大粒の丹波栗(テラウチ・大中(ててうち)の原産地でもある岩屋の里の
コスモス畠と岩屋山栗の木の”いがぐり”も落ち・殻だけ残すものも殆どない。井原郷の岩屋や栗作郷の久下・上久下地区(共に丹波市山南町)は歴史的に最も古い栽培地域で、用明天皇(585~587)の頃より朝廷に栗を寄進していたといわれる。
中世に”テラウチや大中(長光寺か?)” 等大粒栗が盛んに栽培され周辺に広がったが、病気等で絶滅状態となった事もあり衰退・変わって丹波栗の主産地は”銀寄”等品種の伝播と共に大阪能勢や川西・三田や京都和知・亀岡方面に広がっていった。
ヒガンバナの枯花・茎と葉 !!治承4年:伊豆国に平氏打倒に挙兵した源頼朝が「石橋山の合戦(箱根)」に敗北:再起を図って土肥の杉山(!?)に挙兵した際、真っ先に頼朝の陣営に馳せ参じ其の忠誠を賞賛し一番の旗印と家紋を賜り、 栗作郷の新補地頭職として来住したのが久下氏…
元弘3年:北条氏の六波羅軍(京都)打倒に丹波・篠村八幡宮(亀岡市)に挙兵した足利尊氏の参軍にも”一番”に馳せ参じた。建武3年:新田義貞に敗れ、観応2年:弟直義と争った”観応の攪乱”にも久下氏を頼り嫡男義詮と丹波石龕寺に逃れている。
岩屋谷川に沿い緩やかな坂道を石龕寺に向かう道筋には土手のヒガンバナに代わって圃場や空地にはピンク・赤・白…と色とりどりのコスモスが咲き、畠に残されたコキアも色褪せて…。
派手に! 華麗に咲き誇っていた花だけが目立ったヒガンバナだけに、目にすることもなく・気にも掛けなかった葉があったんですね!!?。
同様に…何気なく素通りしてしまう集落内ですが、都会の集合住宅地では…
おそらく目にすることもない蔵・倉が母屋の側に建つ。古民家・商家や酒・醤油の醸造蔵の板壁・漆喰壁に 卯建や鏝絵を施したものや覗き窓…各所に探せば人面にも似たユニークな面白いものが見られるかも…○・△・▇ の窓も…
コスモス畠と岩屋山栗の木の”いがぐり”も落ち・殻だけ残すものも殆どない。井原郷の岩屋や栗作郷の久下・上久下地区(共に丹波市山南町)は歴史的に最も古い栽培地域で、用明天皇(585~587)の頃より朝廷に栗を寄進していたといわれる。
中世に”テラウチや大中(長光寺か?)” 等大粒栗が盛んに栽培され周辺に広がったが、病気等で絶滅状態となった事もあり衰退・変わって丹波栗の主産地は”銀寄”等品種の伝播と共に大阪能勢や川西・三田や京都和知・亀岡方面に広がっていった。
ヒガンバナの枯花・茎と葉 !!治承4年:伊豆国に平氏打倒に挙兵した源頼朝が「石橋山の合戦(箱根)」に敗北:再起を図って土肥の杉山(!?)に挙兵した際、真っ先に頼朝の陣営に馳せ参じ其の忠誠を賞賛し一番の旗印と家紋を賜り、 栗作郷の新補地頭職として来住したのが久下氏…
元弘3年:北条氏の六波羅軍(京都)打倒に丹波・篠村八幡宮(亀岡市)に挙兵した足利尊氏の参軍にも”一番”に馳せ参じた。建武3年:新田義貞に敗れ、観応2年:弟直義と争った”観応の攪乱”にも久下氏を頼り嫡男義詮と丹波石龕寺に逃れている。
岩屋谷川に沿い緩やかな坂道を石龕寺に向かう道筋には土手のヒガンバナに代わって圃場や空地にはピンク・赤・白…と色とりどりのコスモスが咲き、畠に残されたコキアも色褪せて…。
派手に! 華麗に咲き誇っていた花だけが目立ったヒガンバナだけに、目にすることもなく・気にも掛けなかった葉があったんですね!!?。
同様に…何気なく素通りしてしまう集落内ですが、都会の集合住宅地では…
おそらく目にすることもない蔵・倉が母屋の側に建つ。古民家・商家や酒・醤油の醸造蔵の板壁・漆喰壁に 卯建や鏝絵を施したものや覗き窓…各所に探せば人面にも似たユニークな面白いものが見られるかも…○・△・▇ の窓も…
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