野上野城 Ⅱ 丹波市
野上野城 Ⅰ 丹波市からの続き…です
野上野城城主:吉積(吉住)氏は天正6年黒井城荻野直正の家老:金村氏に討たれ落城した(丹波志)という。荻野直正は天正6年3-4月に死没するが黒井城間近の野上野城をなぜ此れまで放置していたのか?、吉住氏が強力な荻野・赤井方にも付かず?!
主曲輪と段下南の曲輪間土塁(石塁?)は削残しの岩盤在地領主?として生き残れたかには疑問が残る。主亡き敗戦色濃くなってきた黒井城の動向を見越した…!?光秀方から勧告に降りたためか?。いずれにしても同年:程なくして神池寺・妙高山から黒井城攻めに向かう藤田伝吾らの手に落ち
野上野城主曲輪野上野城始め周辺城砦は明智方の向城・陣城となったものか?。野上野城の激急斜面岩盤上の南端は監視所・眺望は良く黒井城・黒井盆地の南側には火山城・茶臼山城・惣山城・棚原城…付城群が並ぶ。野上野城を主軸としての関連城砦は
野上野城北尾根続きの曲輪段東尾根続きの野上野東砦(仮称)・西の尾根続きには野上野西砦(仮称だが山麓の桂谷寺の山号となっている照月山4等三角点222m)・野上野西砦からの南尾根上に桂谷寺裏城館がある。急斜面上・自然の要害切岸ともなる岩盤上の野上野城南端曲輪・主曲輪南西切岸の土塁(土塁にはなるが、
野上野東砦:山頂直下の段曲輪土塁線に沿って覗く露岩からは曲輪拡張工事削り残し(立派に一文字土塁!?)・北面・東尾根続きの二本の竪堀?は残るが東尾根続き下方に続く大小多くの曲輪段は東砦との付城関連遺構なのかも。此れ等を除き・残る三城砦の曲輪等は自然に近い平坦地形。臨戦時・短期使用の付城ならこんなものかも?。
野上野西砦:山頂手前(東南)に竪堀!?東砦山上主曲輪の西面と北東の斜面に残る小曲輪群は主に野上野・多利間の峠越えを監視しているよう?。西砦は西正面に黒井城を望む直近にあるが2-3の小曲輪に防戦の切岸加工・土塁等はなく唯一!鞍部側:野上野側に竪堀状が一条あるのみ…?。
野上野西砦:山頂西斜面の段曲輪旧氷上郡遺跡地図にある桂谷寺裏城館は単郭の城砦遺構らしい曲輪が三箇所程に纏まりなく分散して残るだけだが、多利側・野上野側へ臨機に対応可能なので光秀の付城として機能したものか…。
野上野城城主:吉積(吉住)氏は天正6年黒井城荻野直正の家老:金村氏に討たれ落城した(丹波志)という。荻野直正は天正6年3-4月に死没するが黒井城間近の野上野城をなぜ此れまで放置していたのか?、吉住氏が強力な荻野・赤井方にも付かず?!
主曲輪と段下南の曲輪間土塁(石塁?)は削残しの岩盤在地領主?として生き残れたかには疑問が残る。主亡き敗戦色濃くなってきた黒井城の動向を見越した…!?光秀方から勧告に降りたためか?。いずれにしても同年:程なくして神池寺・妙高山から黒井城攻めに向かう藤田伝吾らの手に落ち
野上野城主曲輪野上野城始め周辺城砦は明智方の向城・陣城となったものか?。野上野城の激急斜面岩盤上の南端は監視所・眺望は良く黒井城・黒井盆地の南側には火山城・茶臼山城・惣山城・棚原城…付城群が並ぶ。野上野城を主軸としての関連城砦は
野上野城北尾根続きの曲輪段東尾根続きの野上野東砦(仮称)・西の尾根続きには野上野西砦(仮称だが山麓の桂谷寺の山号となっている照月山4等三角点222m)・野上野西砦からの南尾根上に桂谷寺裏城館がある。急斜面上・自然の要害切岸ともなる岩盤上の野上野城南端曲輪・主曲輪南西切岸の土塁(土塁にはなるが、
野上野東砦:山頂直下の段曲輪土塁線に沿って覗く露岩からは曲輪拡張工事削り残し(立派に一文字土塁!?)・北面・東尾根続きの二本の竪堀?は残るが東尾根続き下方に続く大小多くの曲輪段は東砦との付城関連遺構なのかも。此れ等を除き・残る三城砦の曲輪等は自然に近い平坦地形。臨戦時・短期使用の付城ならこんなものかも?。
野上野西砦:山頂手前(東南)に竪堀!?東砦山上主曲輪の西面と北東の斜面に残る小曲輪群は主に野上野・多利間の峠越えを監視しているよう?。西砦は西正面に黒井城を望む直近にあるが2-3の小曲輪に防戦の切岸加工・土塁等はなく唯一!鞍部側:野上野側に竪堀状が一条あるのみ…?。
野上野西砦:山頂西斜面の段曲輪旧氷上郡遺跡地図にある桂谷寺裏城館は単郭の城砦遺構らしい曲輪が三箇所程に纏まりなく分散して残るだけだが、多利側・野上野側へ臨機に対応可能なので光秀の付城として機能したものか…。
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