応地の道祖神 丹波市
例年1月に行なわれる年中行事「蛇ない」(ここ2年コロナ禍で中止)が行われる山南町応地の大歳神社前から続く林道の奥に兵庫丹波では珍しい道祖神が祀られていたが、現在は林道途中:土石流対策の新造ダム側に移され小さな石囲いの祠の中に
旧地の林中から陽当たり良好の現在地に移された
安置されている。小さな板石に薄肉彫された石造双体道祖神で衣冠束帯に笏(しゃく)を両手に持っ男神と、重ね衣紋に両手で合掌する女神の二体が褥(しとね:座ったり臥したりする時、下に敷く物)の上に正座した端正な姿。
大歳神社に掛かる大人の蛇双体道祖神は中部・関東地方に多く特に長野県安曇野市穂高には男女2神が手を取合い和合の形を示す相対像が多くTV映像・雑誌・ポスターでも時折見掛ける。此処は蛇山岩尾城北東山裾の搦め手か?・岩尾古城(土の城)への大手登城口?と思える
二本の松に掛けられた”こどもの蛇”位置にある。氷上町にも「道祖神の里」の看板を見る:地区や村境・峠にあって土地の人々の集落安泰・通行の安全や一家の息災・悪霊の侵入を防ぐ守護神”田ノ神”で男根形で子孫繁栄・五穀豊穣をも祈願する村の守り神。
陽当たり悪い旧祠(移転前)ではレフ板(代用品)利用でなんとか撮れたが…
城主は信州(長野県)南和田村より来住した谷氏・谷氏の婿養子となった和田日向守も(室町時代末の永正年間か?)同じ信州した人。岩尾古城の城主に関連があれば、珍しい道祖神の存在も合点がいきますね!!…
しかし石像が江戸時代中期以前の作と云う?。北播磨側最前線の和田岩尾城も黒井城(荻野直正)ともに天正7年落城。天正17年比叡山の法師:木戸十乗坊(佐野栄有)が入り岩尾城は石垣の城に生まれ変わるが、信州来住の和田氏時代からは遠のく!? 道祖神 2008.1.16
旧地の林中から陽当たり良好の現在地に移された
安置されている。小さな板石に薄肉彫された石造双体道祖神で衣冠束帯に笏(しゃく)を両手に持っ男神と、重ね衣紋に両手で合掌する女神の二体が褥(しとね:座ったり臥したりする時、下に敷く物)の上に正座した端正な姿。
大歳神社に掛かる大人の蛇双体道祖神は中部・関東地方に多く特に長野県安曇野市穂高には男女2神が手を取合い和合の形を示す相対像が多くTV映像・雑誌・ポスターでも時折見掛ける。此処は蛇山岩尾城北東山裾の搦め手か?・岩尾古城(土の城)への大手登城口?と思える
二本の松に掛けられた”こどもの蛇”位置にある。氷上町にも「道祖神の里」の看板を見る:地区や村境・峠にあって土地の人々の集落安泰・通行の安全や一家の息災・悪霊の侵入を防ぐ守護神”田ノ神”で男根形で子孫繁栄・五穀豊穣をも祈願する村の守り神。
陽当たり悪い旧祠(移転前)ではレフ板(代用品)利用でなんとか撮れたが…
城主は信州(長野県)南和田村より来住した谷氏・谷氏の婿養子となった和田日向守も(室町時代末の永正年間か?)同じ信州した人。岩尾古城の城主に関連があれば、珍しい道祖神の存在も合点がいきますね!!…
しかし石像が江戸時代中期以前の作と云う?。北播磨側最前線の和田岩尾城も黒井城(荻野直正)ともに天正7年落城。天正17年比叡山の法師:木戸十乗坊(佐野栄有)が入り岩尾城は石垣の城に生まれ変わるが、信州来住の和田氏時代からは遠のく!? 道祖神 2008.1.16
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