蛇山岩尾城 丹波市
蛇山岩尾城(和田城)は十二支の山として2018年01月訪城している。ふるさと和田里山づくり協会による岩尾城址整備三ヶ年計画が2022年完了しNHK大河ドラマ化により整備されたが、光秀が一度は敗走した「丹波攻め」の負部分が含まれるので英雄ドラマには触れられていないが御陰で下草刈・樹木伐採で展望更に良く・曲輪や隠れていた石垣等も観察出来る…と新春の初訪城に出掛けてきた。
岩尾城本丸と天守台石垣丹波市山南町和田地区に向かう船戸橋付近からは山上の樹木が切開かれ”石の城”の石垣や大土塁北面の”旧:土の城”域の広い曲輪への斜面形状が望まれるようになった。岩尾城への登城(登山)ルートは幾つも採れるが一般的に知られる登山口は和田小学校と親縁寺(山門は岩尾城落城の際も焼け残り、秀吉の廃城・破却にも残った
氷上郡(丹波)最南端:播磨境に建つ山城に極小規模の天守台は天守祖型!唯一の城門(主要曲輪群から遠く寺に近い大手門か?)を移築されたもので城主佐野下総守栄有が開基の寺)。蛇山は家臣の女房が蛇の子を産む!!…猟奇伝説に起因する名だが、城山(じょうやま)が蛇山(じゃやま)に変化した語彙・岩尾城の東玄関口を監視する支城に状山があり梶城山城(仮称)がある。
霧海に播磨国境の山々を望む(正面左に天狗山<小苗前山前城>・右は石金山から手前は妙見山)城下北東山麓の応地集落には信濃路にみる”丹波には珍しい男女像”の「道祖神」が祀られ、また川の氾濫に橋が流され帰れなくなった子供達を大蛇が胴体を橋代わりにして救ったといい、蛇を模した藁で綯った造り物で大蛇に感謝し無病息災・五穀豊穣を祈願し村中を練り歩く年中行事「蛇ない」・
下知殿丸と主郭部を分ける土橋付堀切和田日向守斎頼による領内新田開発や治水事業はR175号の新田坂(土取で粗消滅した番守寺山城の側)や、加古川沿い船戸橋下手に残る にみる。”信濃国に縁ある”鶴巻藩水野家代官所跡…等々、点在する城下スポットを時々は再訪・再アップしていく予定です (●^_^●)
西ノ丸-本ノ丸へと主郭の石垣群岩尾城和田氏については諸説がある…が至徳2年(1385)信濃国南和田の谷頼綱が市場庄(井原上荘(戦国期の和田荘)の地頭職を得(山南町誌)て孫の谷出羽守基綱が入部し城を築いたとも、大永4年(1524)和田日向守斎頼(ひとより)が城を築き・市場村(現:親縁寺や城通山妙閑寺北上方に拡がる圃場?や付近一帯が城ヶ谷で、親縁寺は城主下屋敷跡)を山麓に移して和田村と称した(氷上郡志)と…。
土の城(古城)と石の城が混在する岩尾城:大土塁(左上部)から古城?の大曲輪へ「丹波志…」等に正元年(1504)城ヶ谷に住む2代目谷左衛門尉兵部介頼衡(よりひら)を訪ね信濃国南和田から武芸・学問に勝れた和田日向守斉頼(ときより)が来村。頼衡に継嗣なく斉頼を娘婿(養子)としたが、家臣の讒言(ざんげん)によって養父を刺殺・自ら家督を継ぎ谷氏から和田姓を名乗った3代目:和田斉頼が永正13年(1516)に築城。頼衡の娘は斉頼と離婚し北和田に住み尼となった…と。
古城部:土塁囲みの細長い曲輪(前後を堀切で遮断している)加古川に架かる船戸橋東詰めに状山(城山)があり南麓に梶の無縁「五輪さん」として祀られるが、殺害された夫:谷兵部介の菩提を弔い此処に籠った婦人:日向守斉頼と離縁した谷氏の娘も尼となり両親を祀り庵を結んだ。五輪塔二基が谷兵部介夫妻・地蔵像(菩薩像か?)は庵を結んだ谷氏の娘の供養碑なのでしょうか…?。
古城部:土橋付き堀切斉頼は天文13年(1548)病死により子の作右衛門師季が継ぐが天正7年(1579)明智光秀の丹波侵攻に落城。天正14年(1586)豊臣秀吉により和田の領主に任じられた近江・比叡山の法師:木戸十乗坊(前田玄以の武将)が3750石で入封すると佐野下総守栄有を名乗り岩尾城主となり主要所を総石垣の城に修改築した。
西尾根:土塁を挟む二重堀切と長い竪堀に沿う竪土塁文禄4年(1595)お国替えにより近江木戸に転封となると、其後:丹波亀山(亀岡市)城主となっていた前田玄以が和田荘を領したが城主は置かず翌:慶長元年(1596)豊臣秀吉の城取り壊しの命により廃城となった。
岩尾城への登城ルートや城下の諸々のスポットについては次回…
「丹波戦国史(歴史図書社:昭和48年)」 「ひょうごの城紀行(神戸新聞総合出版センター)」 参考
岩尾城本丸と天守台石垣丹波市山南町和田地区に向かう船戸橋付近からは山上の樹木が切開かれ”石の城”の石垣や大土塁北面の”旧:土の城”域の広い曲輪への斜面形状が望まれるようになった。岩尾城への登城(登山)ルートは幾つも採れるが一般的に知られる登山口は和田小学校と親縁寺(山門は岩尾城落城の際も焼け残り、秀吉の廃城・破却にも残った
氷上郡(丹波)最南端:播磨境に建つ山城に極小規模の天守台は天守祖型!唯一の城門(主要曲輪群から遠く寺に近い大手門か?)を移築されたもので城主佐野下総守栄有が開基の寺)。蛇山は家臣の女房が蛇の子を産む!!…猟奇伝説に起因する名だが、城山(じょうやま)が蛇山(じゃやま)に変化した語彙・岩尾城の東玄関口を監視する支城に状山があり梶城山城(仮称)がある。
霧海に播磨国境の山々を望む(正面左に天狗山<小苗前山前城>・右は石金山から手前は妙見山)城下北東山麓の応地集落には信濃路にみる”丹波には珍しい男女像”の「道祖神」が祀られ、また川の氾濫に橋が流され帰れなくなった子供達を大蛇が胴体を橋代わりにして救ったといい、蛇を模した藁で綯った造り物で大蛇に感謝し無病息災・五穀豊穣を祈願し村中を練り歩く年中行事「蛇ない」・
下知殿丸と主郭部を分ける土橋付堀切和田日向守斎頼による領内新田開発や治水事業はR175号の新田坂(土取で粗消滅した番守寺山城の側)や、加古川沿い船戸橋下手に残る にみる。”信濃国に縁ある”鶴巻藩水野家代官所跡…等々、点在する城下スポットを時々は再訪・再アップしていく予定です (●^_^●)
西ノ丸-本ノ丸へと主郭の石垣群岩尾城和田氏については諸説がある…が至徳2年(1385)信濃国南和田の谷頼綱が市場庄(井原上荘(戦国期の和田荘)の地頭職を得(山南町誌)て孫の谷出羽守基綱が入部し城を築いたとも、大永4年(1524)和田日向守斎頼(ひとより)が城を築き・市場村(現:親縁寺や城通山妙閑寺北上方に拡がる圃場?や付近一帯が城ヶ谷で、親縁寺は城主下屋敷跡)を山麓に移して和田村と称した(氷上郡志)と…。
土の城(古城)と石の城が混在する岩尾城:大土塁(左上部)から古城?の大曲輪へ「丹波志…」等に正元年(1504)城ヶ谷に住む2代目谷左衛門尉兵部介頼衡(よりひら)を訪ね信濃国南和田から武芸・学問に勝れた和田日向守斉頼(ときより)が来村。頼衡に継嗣なく斉頼を娘婿(養子)としたが、家臣の讒言(ざんげん)によって養父を刺殺・自ら家督を継ぎ谷氏から和田姓を名乗った3代目:和田斉頼が永正13年(1516)に築城。頼衡の娘は斉頼と離婚し北和田に住み尼となった…と。
古城部:土塁囲みの細長い曲輪(前後を堀切で遮断している)加古川に架かる船戸橋東詰めに状山(城山)があり南麓に梶の無縁「五輪さん」として祀られるが、殺害された夫:谷兵部介の菩提を弔い此処に籠った婦人:日向守斉頼と離縁した谷氏の娘も尼となり両親を祀り庵を結んだ。五輪塔二基が谷兵部介夫妻・地蔵像(菩薩像か?)は庵を結んだ谷氏の娘の供養碑なのでしょうか…?。
古城部:土橋付き堀切斉頼は天文13年(1548)病死により子の作右衛門師季が継ぐが天正7年(1579)明智光秀の丹波侵攻に落城。天正14年(1586)豊臣秀吉により和田の領主に任じられた近江・比叡山の法師:木戸十乗坊(前田玄以の武将)が3750石で入封すると佐野下総守栄有を名乗り岩尾城主となり主要所を総石垣の城に修改築した。
西尾根:土塁を挟む二重堀切と長い竪堀に沿う竪土塁文禄4年(1595)お国替えにより近江木戸に転封となると、其後:丹波亀山(亀岡市)城主となっていた前田玄以が和田荘を領したが城主は置かず翌:慶長元年(1596)豊臣秀吉の城取り壊しの命により廃城となった。
岩尾城への登城ルートや城下の諸々のスポットについては次回…
「丹波戦国史(歴史図書社:昭和48年)」 「ひょうごの城紀行(神戸新聞総合出版センター)」 参考
この記事へのコメント
ブログへの引っ越しされてて良かったです。
我が家の傍の岩尾城の記事拝見しました。
少しでも地域のことがわかるのがうれしいです。
これからもよろしくお願いします。
ブログ引っ越しアドバイスの件 ありがとうございました
御陰でseesaa へは引っ越し後のメンテ 殆ど無しで大助かり
Google 地図表示に難ありですが…
>我が家の傍の岩尾城の記事拝見しました。
新岩尾城の大土塁北下の旧岩尾城大曲輪から山ぬけ状態の”人間地獄”が望めますが 大土塁直ぐ下の二重堀切から西への尾根伝いに行けますよ 更に西への尾根上(次のピーク)にも砦跡 そのまま尾根を若林や尾根先端部の神社マークへも降りられそうなのでto_ryouさんの 散歩コースに良さそうですね