香良合戦 3:布陣城砦群 丹波市

奥丹波の氷上郡(丹波市)にあって最古参の有力国人領主に芦田氏(保元3年:1158 信濃国より丹波芦田庄に来住・本拠小室城)と足立氏(全国足立姓の先祖遠元:遠元の孫:遠政が承元3年(1209)武蔵国足立郡より佐治庄に来住・本拠を小倉の岩本城から山垣城に移す)とは佐治庄の足立氏・芦田庄の芦田氏と境界を接しているが、勢力は拮抗しており?時に小競り合いはあったが大きな争いはなかった様。
   黒尾神社鳥居前東北:岩本城<足立基則 推定-->
画像
芦田庄の小室城から西端の沼城を結ぶ南側域は御油荘で荻野氏・赤井氏の勢力下。沼城の北麓には芦田氏一族の芦田(井上)九郎為家が居城し栗住野を名乗る。この為家が氷上の新郷に移り赤井姓を興し・為家の二男朝忠が荻野姓を興した?とも…。「中世城郭研究」第35号(発行:中世城郭研究会 2021年10月)の研究ノートに高橋成計氏「城郭から考える丹波香良合戦」が寄稿されている。
    丹波市に少ない平城の栗住野城濠跡
画像
丹波市の城郭研究の詳細・未報告新発見城郭については他の追随を許さずの感ある氏の発刊著書には:順序が逆になるが明智光秀をヒーローにNHK大河ドラマ「麒麟がくる」放映に先立ち、丹波市内の中世城館を主体とした「明智光秀の城郭と合戦(戎光祥出版)」と”明智光秀を破った「丹波の赤鬼」荻野直正と城郭”(神戸新聞総合出版センター)等がある。
    香良城Ⅰ郭北切岸の石積
画像
天正年中の明智光秀による黒井城攻略時の黒井城砦群・明智軍の陣城・付城群が林立するなか弘治元年(1555)香良合戦関連城郭についても「丹波の赤鬼」…の第5章に7城程が紹介されている…。香良合戦は”細川家内紛の代理戦争”とも云われている。細川氏綱方に三好・内藤氏らが芦田・足立氏連合に附き介入したかは別として、
      鴨内城主郭の切岸:左の谷側に低土塁・正面櫓台土塁
画像
旧黒井城主荻野秋清派?が氏綱方:新黒井城主荻野直正・赤井時家ら晴元派と二分していたことに加え、秋清を直正が刺殺した”お家騒動”の翌年に勃発している…赤井家にとって黒井城主となった直正が元の赤井姓に戻らず…旧秋清派の荻野家にとっても燻り続ける不満が要因を増幅させてきたものか?。
      北由良城主郭北面の切岸
IMG_8333.JPG
ひとり荻野・赤井一族の勢力拡大には丹波最古参の足立氏・赤井家元祖の芦田氏にとっても不満あり…新城主の荻野直正に対抗したものか!?。鴨内城(隠谷城)・井階山城砦群(伊佐口砦・井階山南城・北城)香良西砦(円悟寺裏砦:小屋山城)から香良谷北側の加和良神社付近・陣道ヶ原(往時は湿地帯)側に布陣して対峙する。
      香良南砦から井階山城塞群(左奥)・正面右手に香良西砦
IMG_8310.JPG
赤井・荻野方は南方からの侵攻ルートとして:黒井城から陣道ヶ原の合戦場へ霧山城東麓の天王坂を越えれば、北の丘陵を越えず病院・小学校・郵便局前(絹山地区)へと平地を進み、此の先が陣道ヶ原:東へ拡がる絹山・香良谷川沿い香良地区一帯の合戦主戦場だが、元禄14年但馬へ帰る大石良雄の妻:りくも越えた”天王坂”を下ると”桟敷”だが、名からは往時(群馬県:尾瀬ケ原の桟橋を想像してもらえれば
       香良南砦山頂曲輪群は其処此処に硅石の露天採掘跡!が残る
IMG_8307.JPG
…桟敷を通る沼地か?渡船場だったか?。しかも北方の敵からは動きが丸見え状態…なのだが陣道ヶ原南西先端の絹山地区に絹山砦(仮称)がある。桟敷の下流2.5㎞氷上IC付近の東には江戸時代に入っても加古川の氾濫に堤防(十六丁畷)が築かれ・氷上IC西側の明治山(犬岡山)も前期柏原藩織田家の藩邸候補地として有望だったが、加古川の氾濫に湖化し小島の様になり諦め柏原町に移ったという。
      井階山南城主郭(南面から)
IMG_8250.JPG
絹山砦は先のブログ紹介高橋成計氏の”城郭から考える丹波香良合戦”寄稿後の発見なので当内容で丹波市の講演でもあれば、砦の所在が分かりやすい場所だけに追稿されるのかも?。黒井城からは牛河内側:由良坂から北油良に入り北油良城をベースとして「勝坂」を越え絹山地区に至り、香良谷川を挟み南北に対峙する南の絹山側には前進基地(高谷砦や絹山北砦香良南砦)…等がある。
香良合戦:序 https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/202210article_12.html
香良合戦2:通説 https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/496340533.html
香良合戦4:合戦と余波 https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/496858574.html

この記事へのコメント