香良合戦 4:合戦と余波… 丹波市
長文で:其れでも語り尽くせないが最終章!? 各城砦の詳細!?については香良合戦1-4内リンク付けの城情報を参照願います。伊佐口から「井階山城塞群(仮称)」へは、主戦場となった陣道ヶ原(加和良神社ー伊佐口公民館南付近!)から井階山稜上の城塞群を巡ってきた。
井階山北城南岩稜部:曲輪・城域確保の土留め石積香良合戦については地元でも香良地区の方は殊に足立氏との関連に関心があり問いかけ・話題に応えてくれる人は多いが、主戦場となったと伊佐口地区では城砦があることも・此処で熾烈な合戦があったことも御存知ない…というより関心を寄せる人が殆どいない!!。絹川地区には明智光秀の大河ドラマ化に:直接関係のない香良合戦歴史道「勝坂」が整備され案内説明板も設置された。
井階山南城主郭(南面から)戦闘で負傷した荻野直正が家臣に背負われ遁れた峠が「勝坂」なので少しは”香良合戦”に関心を寄せられてはいるようす?。合戦場となった加和良神社の南側一帯が陣道ヶ原:香良西城からの西尾根末端の地蔵ヶ鼻に香良合戦によるものか!?地蔵尊と五輪塔残欠を残す「首塚」が祀られる。
加和良神社裏手林道脇に並ぶ地蔵と五輪塔残欠は首塚か…?地蔵ヶ鼻
北方は井階山を南へ流れ出る伊佐谷川、東は鷹取・五台山から独鈷滝・岩滝寺…香良谷川に挾まれた中洲状の位置にあり、伏流の香良谷川が加古川河口近くの伊佐口で湧き出してくる。往時:沼地・泥田状態の「陣道ヶ原合戦場」を挟んで北の伊佐口・香良に旧荻野秋清派と芦田・足立軍、南の絹山に荻野直正・赤井軍が着陣して対峙したと考える。
加和良神社の椋(ムク)木(市指定天然記念物)南側一帯が陣道ヶ原古戦場
絹山地区の北東末端部の「絹山北砦」から香良地区へは、未だ伏流で水量の殆どない香良谷川沿いに無理なく侵攻は可能、敵陣まで近過ぎて少し無理があるかも?知れない。南背後の北油良(春日町からは牛河内から由良坂…等からの峠を越えれば南由良や桟敷に通じ北由良・最奥の安養寺一帯は赤井・荻野方の勢力下?)に布陣し
絹山砦:此れが参道!?激登り末の土塁平入虎口を愛宕社?を祀る山上主曲輪に入る「勝坂」から絹山側に侵攻した合戦前夜臨戦の砦を築いたものと思える。赤井・荻野勢にとって:北由良側の陣なら「勝坂」や牛河内坂を越えての奇襲戦法が功を奏せば絹山に陣を敷くことは可能と思われる。香良合戦の起因は前年:荻野才丸(朝日城主)が叔父:荻野秋清(黒井城主)を刺殺した。才丸(荻野直正)が養子縁組で荻野の家督を継いだ事・秋清刺殺についても荻野・赤井家臣団にあって
絹山砦:北段端末曲輪切岸下の堀切<上部>と外土塁(竪土塁)を囲むU字状竪堀<手前>一部上層部だけで勝手に決められたことなのか? 秘密保持とはいえ直正の城主謀殺に対し家臣団の多くは黙認?、また直正が黒井城主となった後も元の赤井姓を名乗らないこと等で赤井・荻野両家ともに遺恨や不満が鬱積し諸武士団の結束力を欠く一面もあったかと推察・種々要因は既に燻り続けていた。赤井・荻野の台頭に国人領主らは次々と其の傘下に組み入れられ、
高坂城の空堀と土塁天正2年(1574)に何があったか?最後の城主佐馬頭為家の余田城も落城し赤井氏軍門に下るが、足立氏らと同様関東来住:余田氏は弓術・槍術に優れた武士集団。鴨内城は余田氏領内からは最短距離・此処を落とし地蔵ヶ鼻へ出て陣道ヶ原へ侵攻すれば、直正勢にとっては芦田・足立連合を挟み撃ち出来優位に戦いが展開出来る!筈。勝坂を下った絹山北砦は現:地区住宅地までの広い平坦部・小岡を挟んで
絹山北砦(西・東)主曲輪間の堀底道?二つの単郭砦と間には出撃口ともなる二本の間道(堀底道)が香良側に通じる。東の山裾沿いに進めば正面に香良西城に正対して香良南砦がある。芦田・足立勢力は伊佐口から香良に掛けて・香良谷川の右岸(北)に陣を敷いたようなので、前線基地というより敵陣深く入り込んで築いた臨戦:急備えの”香良南砦”も高谷砦・絹山北砦更に南側丘陵西端の絹山砦は荻野直正勢力の香良合戦に於ける砦。
高谷砦(北西尾根の段曲輪群(古墳!?)の間から落ちる竪堀?絹山砦は稲荷社の主郭から数段曲輪を積むだけだが短い尾根先端を堀切とU字竪堀が落ちる城砦群中のユニークというより白眉。また市島町に友政城の属城か新道貝城:東氏の居城がありR175号を越えて北方:市ノ貝集落に向かう地区道が西裾を通り、其の西300m程に高坂城(上の段)がある。丹波志に”郭跡アリ 何某ノ城ト云うヲ不知 此近所二今宮八幡と称社有之此城主ヲ祀ルト云 姓名不知…”とある
高坂の祠堂の石仏群 よく似た縄張りの関連城趾。”上の段”から出土した30数体の石仏群を祀る祠がある。”赤井先祖細記”に元禄5年(1692)”竹田と申す所に寄騎36人これ有り逆心仕り候につき 攻め寄せて一人も残さず一座にて討ち亡し申候”…の口伝からは永禄元年(1558)頃の事と云い36人の拠城が石仏出土の上の段「高坂城」であったと推定されている。 祖父祖父堂青垣町にも36人の冥福を祈る首塚や祖父祖父堂(芦田・足立両家か?)がある。香良合戦に関するものとも天正7年明智光秀による謀殺との口伝もあるが…。”逆心”とは同1558年荒木山城の荒木一学(内藤貞勝の臣)を荻野直正が攻略した時の事か? 3年前の香良合戦に黒井城の荻野への参軍の呼び掛けに応じなかった?余田氏の事だろうか?。 最後に香良合戦:序に記した「中世城郭研究」第35号の[研究ノート]高橋成計氏の”城郭から考える丹波香良合戦”寄稿を丹波市教育委員会・丹波の森協会…観光協会等関係各所に於いて何時か?何らかのイベント等に活かされ・講演される事も期待したい
香良合戦:序 https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/202210article_12.html
香良合戦2 :通説 https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/496340533.html
香良合戦3 :陣城砦群 https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/496559366.html
井階山北城南岩稜部:曲輪・城域確保の土留め石積香良合戦については地元でも香良地区の方は殊に足立氏との関連に関心があり問いかけ・話題に応えてくれる人は多いが、主戦場となったと伊佐口地区では城砦があることも・此処で熾烈な合戦があったことも御存知ない…というより関心を寄せる人が殆どいない!!。絹川地区には明智光秀の大河ドラマ化に:直接関係のない香良合戦歴史道「勝坂」が整備され案内説明板も設置された。
井階山南城主郭(南面から)戦闘で負傷した荻野直正が家臣に背負われ遁れた峠が「勝坂」なので少しは”香良合戦”に関心を寄せられてはいるようす?。合戦場となった加和良神社の南側一帯が陣道ヶ原:香良西城からの西尾根末端の地蔵ヶ鼻に香良合戦によるものか!?地蔵尊と五輪塔残欠を残す「首塚」が祀られる。
加和良神社裏手林道脇に並ぶ地蔵と五輪塔残欠は首塚か…?地蔵ヶ鼻
北方は井階山を南へ流れ出る伊佐谷川、東は鷹取・五台山から独鈷滝・岩滝寺…香良谷川に挾まれた中洲状の位置にあり、伏流の香良谷川が加古川河口近くの伊佐口で湧き出してくる。往時:沼地・泥田状態の「陣道ヶ原合戦場」を挟んで北の伊佐口・香良に旧荻野秋清派と芦田・足立軍、南の絹山に荻野直正・赤井軍が着陣して対峙したと考える。
加和良神社の椋(ムク)木(市指定天然記念物)南側一帯が陣道ヶ原古戦場
絹山地区の北東末端部の「絹山北砦」から香良地区へは、未だ伏流で水量の殆どない香良谷川沿いに無理なく侵攻は可能、敵陣まで近過ぎて少し無理があるかも?知れない。南背後の北油良(春日町からは牛河内から由良坂…等からの峠を越えれば南由良や桟敷に通じ北由良・最奥の安養寺一帯は赤井・荻野方の勢力下?)に布陣し
絹山砦:此れが参道!?激登り末の土塁平入虎口を愛宕社?を祀る山上主曲輪に入る「勝坂」から絹山側に侵攻した合戦前夜臨戦の砦を築いたものと思える。赤井・荻野勢にとって:北由良側の陣なら「勝坂」や牛河内坂を越えての奇襲戦法が功を奏せば絹山に陣を敷くことは可能と思われる。香良合戦の起因は前年:荻野才丸(朝日城主)が叔父:荻野秋清(黒井城主)を刺殺した。才丸(荻野直正)が養子縁組で荻野の家督を継いだ事・秋清刺殺についても荻野・赤井家臣団にあって
絹山砦:北段端末曲輪切岸下の堀切<上部>と外土塁(竪土塁)を囲むU字状竪堀<手前>一部上層部だけで勝手に決められたことなのか? 秘密保持とはいえ直正の城主謀殺に対し家臣団の多くは黙認?、また直正が黒井城主となった後も元の赤井姓を名乗らないこと等で赤井・荻野両家ともに遺恨や不満が鬱積し諸武士団の結束力を欠く一面もあったかと推察・種々要因は既に燻り続けていた。赤井・荻野の台頭に国人領主らは次々と其の傘下に組み入れられ、
高坂城の空堀と土塁天正2年(1574)に何があったか?最後の城主佐馬頭為家の余田城も落城し赤井氏軍門に下るが、足立氏らと同様関東来住:余田氏は弓術・槍術に優れた武士集団。鴨内城は余田氏領内からは最短距離・此処を落とし地蔵ヶ鼻へ出て陣道ヶ原へ侵攻すれば、直正勢にとっては芦田・足立連合を挟み撃ち出来優位に戦いが展開出来る!筈。勝坂を下った絹山北砦は現:地区住宅地までの広い平坦部・小岡を挟んで
絹山北砦(西・東)主曲輪間の堀底道?二つの単郭砦と間には出撃口ともなる二本の間道(堀底道)が香良側に通じる。東の山裾沿いに進めば正面に香良西城に正対して香良南砦がある。芦田・足立勢力は伊佐口から香良に掛けて・香良谷川の右岸(北)に陣を敷いたようなので、前線基地というより敵陣深く入り込んで築いた臨戦:急備えの”香良南砦”も高谷砦・絹山北砦更に南側丘陵西端の絹山砦は荻野直正勢力の香良合戦に於ける砦。
高谷砦(北西尾根の段曲輪群(古墳!?)の間から落ちる竪堀?絹山砦は稲荷社の主郭から数段曲輪を積むだけだが短い尾根先端を堀切とU字竪堀が落ちる城砦群中のユニークというより白眉。また市島町に友政城の属城か新道貝城:東氏の居城がありR175号を越えて北方:市ノ貝集落に向かう地区道が西裾を通り、其の西300m程に高坂城(上の段)がある。丹波志に”郭跡アリ 何某ノ城ト云うヲ不知 此近所二今宮八幡と称社有之此城主ヲ祀ルト云 姓名不知…”とある
高坂の祠堂の石仏群 よく似た縄張りの関連城趾。”上の段”から出土した30数体の石仏群を祀る祠がある。”赤井先祖細記”に元禄5年(1692)”竹田と申す所に寄騎36人これ有り逆心仕り候につき 攻め寄せて一人も残さず一座にて討ち亡し申候”…の口伝からは永禄元年(1558)頃の事と云い36人の拠城が石仏出土の上の段「高坂城」であったと推定されている。 祖父祖父堂青垣町にも36人の冥福を祈る首塚や祖父祖父堂(芦田・足立両家か?)がある。香良合戦に関するものとも天正7年明智光秀による謀殺との口伝もあるが…。”逆心”とは同1558年荒木山城の荒木一学(内藤貞勝の臣)を荻野直正が攻略した時の事か? 3年前の香良合戦に黒井城の荻野への参軍の呼び掛けに応じなかった?余田氏の事だろうか?。 最後に香良合戦:序に記した「中世城郭研究」第35号の[研究ノート]高橋成計氏の”城郭から考える丹波香良合戦”寄稿を丹波市教育委員会・丹波の森協会…観光協会等関係各所に於いて何時か?何らかのイベント等に活かされ・講演される事も期待したい
香良合戦:序 https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/202210article_12.html
香良合戦2 :通説 https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/496340533.html
香良合戦3 :陣城砦群 https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/496559366.html
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