和藤合戦 序 綾部市山家・下原・上原

天正4年(1576)8月4日!(旧暦では6月末頃):地元(綾部市山家・上原・下原)でも余り知られていない様だが和久氏VS内藤氏の間で和籐合戦があり山家城(甲ヶ峯城)の和久左衛門佐長利(義国)と八木城主:丹波国守護代の内藤備前守宗勝(そうしょう)が合戦に及んだという。(あれっ 宗勝は永禄年間に討死!している筈? のっけから間違い?)
IMG_0766.JPG
綾部市街地からR24号「新綾部大橋」交差点を右折して由良川に架かる新綾部大橋を渡り、井根山公園麓から由良川左岸添いにJR山家駅方面に向かい府道450号線を東走していると下原町公民館の側に立つ「和籐合戦古戦場 旧跡」案内説明板を見ると、永禄6年(1563)此の地:下原で大合戦が行なわれた…という?。
     下原町公民館前から三郡山に至る尾州ヶ尾:左端上に禅定庵?
IMG_0796.JPG
永禄6年は山家領主和久左衛門佐長利(義国)が和久氏を称し丹波国守護代八木城主内藤備前守宗勝(松永長頼)に従い何鹿郡(綾部市)に入部し山家・和知・口上林一帯を領有して甲ヶ峯山頂に山家城を築いて陣を敷いた年。さらに永禄8年(1565)福知山市新庄(和久郷のほぼ中心地)の和久城(安尾城・茶臼山城・山田城)では
  福知山市:和久城(KTR厚中問屋駅:現市民病院口駅?)
IMG_KTf4982.jpg
8月?に新興勢力の黒井城:荻野直正と八木城主:内藤宗勝(松永長頼)が合戦に及んだ「和久郷の戦いに内藤宗勝は和久川で討死した?」とされる伝承地なのだが、綾部市山家史誌等”和籐合戦記”によると永禄8年(1565)?とも…地史のなかには天正4年8月4日:内藤宗勝?(永禄年代に討死しているので明智光秀による和久城落城後の和久左衛門太夫上介追討令…との内容混在!!?)率いる丹後攻略途上の将兵が、
          山家城(照福寺跡:曲輪)
IMG_78752.JPG
山家城主和久左衛門佐吉政を攻めるべく1800とも3000余騎(?定かでないが)の軍勢で大原神社から大原峠を越え和木から下原に侵攻してきた。此れを察知して待構えていた下原の地侍白波瀬肥前守忠次と、由良川を鷹栖から渡ってきた和久方の武将達や加勢に駆けつけた地元住民ら約200が応戦した!!。
          山家城(主郭北面:土塁から大堀切)
IMG_78691.JPG
多勢に無勢の劣勢ではあったが白波瀬館・尾州ヶ尾や其の南尾根の先端付近にあった禅定庵(寺院)・下原山々に繰り広げられた「下原合戦」で熾烈な戦いは梅雨時に夜戦が続いていた。激しく吹き荒れる風雨のなか・しかも夜の急襲には地の利にあかるい地元の白波瀬・和久方に優勢に展開し、
IMG_0798.JPG
三郡(みこおり)山の山頂部から備州ヶ尾の鑓場成等に布陣し、下原の麓へ押出していた?内藤勢は逃げ場を山上へと備州ヶ尾に押し戻されたか?。内藤宗勝の首を挙げて白波瀬方が大勝した…とあり、案内説明板に今も存在しているとある尾州ヶ尾・鑓場成の”内藤宗勝の墓碑”へは岩根山行者堂へと歩道整備された”
      三郡山(みこおりやま)山頂も内藤宗勝の陣所跡!?
IMG_0777.JPG
やまが歴史古道”を利用して最高所の三郡(みこおり)山498mへはJR山家駅で集合し:高橋成計氏のお誘いと「山家歴史の会」会員数名の案内で、禅定庵は踏み込めない程の藪地とのことで公民館付近から遠望・白波瀬館(案内説明板から南東約2ー300m)へは三郡山を下山し解散後に廻ってきた。
      三郡山直ぐ東?斜面下の三郡峠(大原峠に繫がる!?)から尾州ヶ尾
IMG_0783.JPG
次回:資料不足・説明不足を少しづつでも補充するべく先ずは内藤氏配下和久氏VS荻野直正との戦い。内藤氏VS和久氏の合戦。明智光秀の山家城落城後の破却令に従わず謀叛として追討される和久氏…等、興味深いが殆ど詳細知らずでは無謀だが先の香良合戦に続き少し掘り下げ?ながら突き進んでみたい…(^^ゞ
和籐合戦Ⅱ https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/497840618.html
和籐合戦Ⅲ https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/498026204.html

この記事へのコメント