和藤合戦Ⅱ 和久城から山家城へ 綾部市

和藤合戦 Ⅰ 序は、興味深いが:殆ど詳細を知らないまま、ちょっと無謀だが先の香良合戦に続き少し掘り下げ?ながら突き進んでみたい…(^^ゞ
永禄7年(1564)丹波国守護代で八木城主:内藤宗勝(松永長頼)が天田郡(福知山市)・何鹿郡(綾部市)への侵攻拠点として大槻氏の高津城栗城を攻め甲ヶ岳山頂に
      岩根山行者堂・三郡山登山口(やまが歴史古道)
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鴻ヶ嶽城(綾部市大島町)を築くが翌:永禄8年8月?天田郡(福知山市)和久郷に於いて新興勢力の黒井城主:荻野直正の反撃に遭い内藤勢が壊滅的な大敗を喫した「和久郷の戦いに内藤宗勝は和久川で討死?」とされる伝承地の一:永禄8年は荻野直正が八上城主:波多野氏の多紀郡を除く氷上・天田・何鹿の三郡を領し
     やまが歴史古道から遠望の三郡山(左端)-尾州ヶ尾・槍場成(右手の鉄塔付近) 
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内藤方の和久氏も荻野氏に降りており、守護代内藤氏が和久氏の山家城を攻めた「和藤合戦 Ⅰ(序)」に至り・三郡山の北尾根上(備州ヶ尾)で和久氏の客将?:白波瀬氏に討たれた。後に白波瀬家の手による供養碑が此処に建立された。自然石での無名だが“内藤宗勝の墓”は内藤氏本拠の八木城(南丹市)の在る方向を向いて立つ。
       三郡峠(内藤宗勝墓碑・槍場成/上原/下原/大原峠への分岐点)
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和久氏について「塩見系図」によると源太信氏が足利尊氏から丹波七ケ庄を賜わって天田郡に来住した小笠原(塩見大膳大夫)頼勝が塩見氏を名乗ったのが文亀から永正年間 (1501~08)の頃横山城(福知山城)を築き天文年間(1532-55)長男頼氏が横山姓を名のり横山城・二男利明(牧氏:牧城)・三男監物(筑前守)利勝が猪崎城四男左衛門太夫長利を和久庄の山田城(茶臼山城)に配した。
      槍場成(露岩の比較的平坦地で下原集落展望良好・臨戦態勢の曲輪?多数
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和久氏を称した和久左衛門太夫長利八木城主内藤氏(丹波守護代)に従い何鹿郡(綾部市)に入部し山家・和知・口上林を領し甲ヶ峯(広瀬町)に永禄6年(1563)和久左衛門佐長利(義国)が山家城を築いた。丹波へ侵攻を繰り返した三好氏を後ろ盾に?同族の八木城主内藤宗勝が黒井城主荻野直正と合戦に及んだ永禄8年和久郷の戦いに内藤宗勝戦死?の伝承地の一が此の和久城(茶臼山城)。
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敗走の内藤勢が脱出し籠もった鬼ヶ城へは領地を安堵された天田・何鹿郡の国人領主等が、荻野直正の傘下に参入して横山氏・牧氏等と共に攻撃した…。
照福寺は文安2年(1445)創建とされ和久氏が山家に入部の際、和久郷(福知山市)の和久川沿いにあった菩提寺を此処に遷した!?。次に荻野直正に降りた和久氏を内藤氏が攻めたのが「和籐合戦」…。
  鷹栖-下原間の渡河地点に建つ白波瀬備前守の掻上方形居館と東側/南側の濠跡
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内藤宗勝は永禄6年和久郷の戦いとも・永禄8年和籐合戦に討死…ともされるが、和籐合戦を天正4年とする解説や地方史誌…等が次回整理しつつ纏めたい。
和籐合戦Ⅲ https://tanbakirinosato.seesaa.net/article/498026204.html

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