謎の空堀・土塁群 篠山市味間南
「初田酒井党城砦群」として味間南の城砦群・城砦遺構でない!?「謎の空堀土塁群」・地図からも消えた「夙村」や井根山城の北・東山麓の遺跡…等を” 十把一絡げ”にしたブログ説明では…分かり辛かったと思えるので、「謎の空堀・土塁群」の再レポートです。補足関連画像も再利用して掲載しているかも…。
初田酒井党城砦群 Ⅰ 謎の空堀群 Ⅱ 味間南城 Ⅲ 井根山城
井根山東麓の音羽谷川沿いスギ・ヒノキ林の拡がる丘陵山麓一帯が”夙廃村”跡か?
謎の空堀・土塁群篠山市味間南・味間新
文保寺参道側の味間南城394m西南麓の墓地と田圃の端や、東南山麓の集合墓地裏手には高く深いほぼ同規模の空堀・土塁が遺る。井根山城(仮称)への取付き点を探し音羽川沿いの東尾根山麓を北尾根先端付近の岩上神社や
東正面!?山麓の宝篋印塔・加茂神社旧跡や「ケアハウス丹波の郷」付近へと音羽谷川沿いの緩斜なスギ・ヒノキ林の拡がる丘陵山麓一帯に見掛ける!!丘陵裾にも同規模ながら、斜面の低い方に鋭角に折れて口が開く居館?・屋敷跡?とも思えない堀切状(塹壕ではないが7ー8ヶ所:もっと多く点在しているのかも?)見かける。
只:此れ等が城域を分ける堀切なり土塁・曲輪の切岸で防備強化する工夫が、余りされていないようなので濠(後世のものか?)や城の使用目的等・不明の築城時期を含め、嘗て地図からも消えた(渉りの職人集団?の)集落「夙村」と関連するのかは市教育委員会や在地郷土史研究家さんの研究調査等に期待したいところです。
岩上神社背後の土塁・空堀
一帯の大地には江戸時代中期頃?から一時期80戸を数える夙村があったが~末期の嘉永年間(1848ー54)には僅か7戸を数えるほどに減少「多紀郡地誌」には明治17年(1884)全戸がなくなった夙村の記述がある。(夙=「賎民視された人々」を意味する)だが地区内では少なからず交流もあったと云う。
南北朝期?の宝篋印塔:基盤は反花で飾るが相輪の九輪上部や請花・宝珠は欠損する
「多紀郡明細記」に「柿渋師 夙村…」記述があり柿渋職人の村で、柿や柿渋師としての技術で各地へ出稼ぎした「渉り職人」の集団だったか?。夙村の突然の人工減少の原因には”渉り”によって?江戸時代末期:幾度となく流行した疫病大流行(殊に文久2年(1862)・安政5年(1858)…に感染して帰った村で広まったものか?。
加茂神社旧跡碑
随所に見掛ける謎の空堀土塁群と夙村居住者との関連性は不詳だが、夙の氏神:加茂神社の仏像(阿弥陀如来座像)を岩根山城へのスタート地点:味間新の地蔵堂に、御神体を岩上神社に遷し祀られている。味間南城南端鞍部:福井谷居館背後に平野株の供養碑と思える石碑が建つが建立の大正4年…も疫病がはやり始めた時期と重なる!?。(丹波新聞2018.10.03記事を参考)
宝篋印塔・加茂神社旧跡の直ぐ背後にも謎の空堀・土塁群がある!!
初田酒井党城砦群 Ⅰ 謎の空堀群 Ⅱ 味間南城 Ⅲ 井根山城
井根山東麓の音羽谷川沿いスギ・ヒノキ林の拡がる丘陵山麓一帯が”夙廃村”跡か?
謎の空堀・土塁群篠山市味間南・味間新
文保寺参道側の味間南城394m西南麓の墓地と田圃の端や、東南山麓の集合墓地裏手には高く深いほぼ同規模の空堀・土塁が遺る。井根山城(仮称)への取付き点を探し音羽川沿いの東尾根山麓を北尾根先端付近の岩上神社や
東正面!?山麓の宝篋印塔・加茂神社旧跡や「ケアハウス丹波の郷」付近へと音羽谷川沿いの緩斜なスギ・ヒノキ林の拡がる丘陵山麓一帯に見掛ける!!丘陵裾にも同規模ながら、斜面の低い方に鋭角に折れて口が開く居館?・屋敷跡?とも思えない堀切状(塹壕ではないが7ー8ヶ所:もっと多く点在しているのかも?)見かける。
只:此れ等が城域を分ける堀切なり土塁・曲輪の切岸で防備強化する工夫が、余りされていないようなので濠(後世のものか?)や城の使用目的等・不明の築城時期を含め、嘗て地図からも消えた(渉りの職人集団?の)集落「夙村」と関連するのかは市教育委員会や在地郷土史研究家さんの研究調査等に期待したいところです。
岩上神社背後の土塁・空堀
一帯の大地には江戸時代中期頃?から一時期80戸を数える夙村があったが~末期の嘉永年間(1848ー54)には僅か7戸を数えるほどに減少「多紀郡地誌」には明治17年(1884)全戸がなくなった夙村の記述がある。(夙=「賎民視された人々」を意味する)だが地区内では少なからず交流もあったと云う。
南北朝期?の宝篋印塔:基盤は反花で飾るが相輪の九輪上部や請花・宝珠は欠損する
「多紀郡明細記」に「柿渋師 夙村…」記述があり柿渋職人の村で、柿や柿渋師としての技術で各地へ出稼ぎした「渉り職人」の集団だったか?。夙村の突然の人工減少の原因には”渉り”によって?江戸時代末期:幾度となく流行した疫病大流行(殊に文久2年(1862)・安政5年(1858)…に感染して帰った村で広まったものか?。
加茂神社旧跡碑
随所に見掛ける謎の空堀土塁群と夙村居住者との関連性は不詳だが、夙の氏神:加茂神社の仏像(阿弥陀如来座像)を岩根山城へのスタート地点:味間新の地蔵堂に、御神体を岩上神社に遷し祀られている。味間南城南端鞍部:福井谷居館背後に平野株の供養碑と思える石碑が建つが建立の大正4年…も疫病がはやり始めた時期と重なる!?。(丹波新聞2018.10.03記事を参考)
宝篋印塔・加茂神社旧跡の直ぐ背後にも謎の空堀・土塁群がある!!
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