初田酒井党城砦群Ⅱ 味間南城 篠山市

謎の空堀群が(初田酒井党城砦群Ⅰ)井根山城(仮称409m)の東山麓・音羽谷川沿い一帯のスギ・ヒノキ林の拡がる大地に、江戸時代中期頃?から一時期80戸を数える夙村があったが~末期の嘉永年間(1848ー54)には僅か7戸を数えるほどに減少「多紀郡地誌」には明治17年(1884)全戸がなくなった夙村の記述がある
      味間南城:主曲輪北端虎口?(下方に物見曲輪あり)
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(夙=「賎民視された人々」を意味する)だが地区内では少なからず交流もあったと云う。「多紀郡明細記」に「柿渋師 夙村…」記述があり柿渋職人の村で、柿や柿渋師としての技術で各地へ出稼ぎした「渉り職人」の集団だったか?。
       味間南城:主郭と櫓台土塁
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夙村の突然の人工減少の原因には”渉り”によって?江戸時代末期:幾度となく流行した疫病大流行(殊に文久2年(1862)・安政5年(1858)…に感染して帰った村で広まったものか?。井根山城と谷一つ隔てた西の尾根先味間南城(394m)の北東端民家背後の丘陵部にも古墓があり(現状知らず)、
       味間南城:主郭櫓台土塁(土壇部)
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主郭の櫓台大土塁から尾根続き南への鞍部を降る(福井谷居館背後の丘陵部)にも一基の墓碑?が立つ。墓碑銘に如来・菩薩を示す梵字?が彫られ、背面に…大正5年(1916)…とあり”大正の疫病”が流行り始めた?頃のもの此方の極近くにも同様の空堀があり、空堀群・夙村の居住者との関連は有りそうに思える。
  福井谷館上部/味間南城南尾根鞍部(平野一族?か大正5年建立の供養碑か?)
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夙の氏神:加茂神社の仏像(阿弥陀如来座像)を岩根山城へのスタート地点:味間新の地蔵堂に、御神体を岩根山城からの尾根北東麓に鎮まる岩上神社に遷し祀られている。(参考:丹波新聞2018.10.03記事)
       味間南城上砦(仮称)北面:最奥が主曲輪 
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空堀との因果で遠回りしてしまったが井根山城(仮称)のレポートに移る前に、前の味間南城に戻ります。再々再…訪となるので詳細?はホームページのレポートを参照していただき簡単に。味間南城の尾根続きの文保寺塔頭寺院が並ぶ東側丘陵上の砦遺構を見て肩越の辻までのトレースをメインとしたい。
         味間南城上砦(仮称)主曲輪
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文保寺周辺の城砦が南矢代城主:酒井主水介氏治の築いた矢代酒井党最後の詰め城:松尾山城(高仙寺城)に繋がる。初田酒井党城砦群Ⅰ味間南城レポートのつもりで始めたので記述が重なる部分はご容赦願います。味間南城は堀切もなく曲輪の切岸も山麓からの防御性には弱い!?。
         味間南城上砦(仮称):南尾根続きの土橋付堀切
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居城であったとも感じる主郭部からの尾根続きは結構な急斜面を思いのほか長く歩かされて砦遺構!520mに着く。数段の曲輪を経て・砦域をだいぶ外れた?と思えた尾根続きに土橋付き堀切をみる…が堀切からも城遺構らしいものを見ないまま進み、大夫離れた尾根筋から文保寺塔頭寺院の屋根が見える位置からは
        味間南城上砦:竪堀下部(麓)の文保寺塔頭寺院
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途中15m?程で一旦途切れる?(消える)が激急斜面上をそのまま最奥の塔頭寺院(赤い橋)を渡り本堂と分れ東への林道直ぐ側まで落ちる長い竪堀(自然地形?)となる。尾根筋は急傾斜もおさまると緩斜な山道を伝って「肩越の辻」で文保寺へ下る道/松尾山・白髪岳縦走路/火燈山509m・音羽山530m・大沢ロマンの森へ、
  肩越の辻左端・文保寺へ/左正面・味間南城(入山注意)/右端が味間新・火燈山・大沢ロマンの里方面
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または更に大沢城から禄庄城を経て大沢ロマンの里へ降りる分岐点でもある。”肩越の辻”からは火燈山509mの手前で味間新からの山道が合流するが、井根山城(409m 仮称)からの尾根筋に沿う谷筋にある。
 次回:初田酒井党城砦群Ⅲ 井根山城 に続く

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