安場砦Ⅰ「安場砦」を探して 綾部市安場

綾部城の支城群に田野城(岡倉山城 守将:福山氏)や西向いの赤坂坪砦(守将:西岡丈助)・丘陵尾根上には安場砦(守将:平尾某)があったとされます。随分とむかし…に城砦を探してみたが赤坂坪砦は位置を間違えたか?。未だ未だ登山主体の”山城初心者”で失敗。安場砦も山頂部付近の平坦地形や堀切にしては浅く幅もない防御施設?も貧相で遺構ともおもえず手応えなく引返していた。
    和籐合戦に討死した内藤宗勝の墓碑(尾州ヶ尾)
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綾部城とは前期綾部藩陣屋(市民センター近く・綾高分校の堀ノ内か?)に元和年間(1615-)移封された別所吉治(別所重棟の子)や三田藩九鬼氏が入封し火災により新築:移った後期綾部陣屋(上野)ではなく、大本教本部(本宮町)の地に永禄8年(1565)八上城主波多野氏の被官:江田兵庫頭行範が築城した綾部城だが天正7年(1579)明智光秀の丹波侵攻に落城した。
        和籐合戦:宗勝の本陣?となった三郡山
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内藤宗勝が和藤合戦(内藤氏と和久氏による下原の戦い)に”尾州ヶ尾”で討死したのが永禄8年で、至近の鑓場成に墓碑もある。過去の安場砦探索失敗に再訪?する前に浅木山城や山頂から西に延びる尾根末端の上安場城(福知山市三俣)についても少し整理しておく必要がありそう。
        三郡山本陣跡?(広い平坦地形)
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上安場城は八木尾張守の子:助之丞とされ永禄年間(1558~70)に築城!?…として山陰道(R9号線)の監視に充っていたものか!。和久氏の山家城(綾部市)を八木城の内藤氏が攻めた頃の浅木山城は八木尾張守が拠っており:其の合戦記録が残る数少ない山城でもある。京丹波町・福知山市三和方面から川合を経由して
     三郡山から下る尾州ヶ尾の鑓場成(槍場平か!)
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浅木山城を攻め落としたものか?落城後は内藤氏の前線基地として山家城の和久左衛門左を攻めたのが永禄6年(1563)というが内藤宗勝は黒井城:荻野直正と和久郷(天田郡:現福知山市)の戦いに討死説もあった。時期は不詳だが丹波志に”何鹿(いかるが)郡の戦いに討死”したとあるのは浅木山城落城の際の八木尾張守のことか!?、
     鑓場成(宗勝最後の合戦場か?)から下原・山家城の眺望
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八木山城は子の助之丞が継いだ。また八木氏の子孫は大槻氏を名乗り?石原城とは縁者ともいう。出自:出典元を失念し内容詳細についても古文書を解読出来ないが”内藤宗勝書状”には「…宮田表(所在不詳)の敵に差し向けたが…敵一人も出なく……安庭(安場)に敵百余名…須智・山内衆・大槻衆らで追落とし悉く捕えた…」とある。
   田野城(府道709号)側から安場砦を望む(右の秋葉社?から左高所の安場砦主曲輪!)
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永禄6年宗勝が山家城の和久長利を攻め(𠮷政が継ぐ)ているが、浅木山城の戦いも山家城攻めに関連するものか?…此の”浅木山城の合戦”?に敗走する将兵を内藤氏が安場周辺に残党狩り!を展開し何鹿郡(綾部市)の土豪らに探索させたものか。
やっと行き着いた!?安場砦を次回Ⅱで…



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