井根山城(仮称) 篠山市

「初田酒井党城砦群」として味間南の城砦群・城砦遺構でない!?「謎の空堀土塁群」・地図からも消えた「夙村」や井根山城の北・東山麓の遺跡…等を” 十把一絡げ”にしたブログ説明では…分かり難いと思えるので”築城主不明の井根山城(仮称)409mについて築城目的や位置から推測」しての再レポートです。
 初田酒井党城砦群 Ⅰ 謎の空堀群 Ⅱ 味間南城 Ⅲ 井根山城 
       井根山城:主郭の段曲輪群(岩上神社側)
IMG_1218.JPG
味間北城は味間谷の土豪:安村丞太夫か?谷後和泉守か?三崎(味間)伊豆守秀友なのか…?、味間南城(平野酒造之丞)、JR篠山口駅近くの佐幾山城緑庄城は”酒井勘四郎の家臣:杉本氏・石井氏、大沢城には初田酒井党の若き闘将酒井勘四郎氏武)が居て、禄庄城-大沢城-火とぼし山城(砦)へ繋がる尾根筋が、矢代酒井党の多くの諸城砦群ともに最後の詰城松尾山城(高仙寺城)に繋がっている。
       井根山城:防御の主は東斜面(岩上神社側・宝篋印塔側の両尾根間の谷正面切岸)
IMG_1231.JPG
酒井勘四郎は八上城:波多野秀治に属して味間谷の土豪等と篠山盆地(八上城)西玄関口の守備に付いていたものか。天正:光秀の侵攻には多勢に無勢・戦いを解き勘四郎自身は八上城に入り、落城後は光秀に降り天正10年(1582)山崎合戦に従軍し大津瀬田で討死(享年18歳)したという。今回発見した井根山城(仮称)については城主等城史一切不明ですが、城の規模からも初田酒井党家臣の杉本与右衛門や
井根山城:主郭と二段の帯曲輪
IMG_1229.JPG
石野久兵衛配下の城郭かと思えます。井根山城へのスタート地点とした”味間新の地蔵堂”は往時「丹後成相寺巡礼道」で地蔵堂前の摩耗した三角柱の道標が「左:久下播磨(第25番:清水寺)・右:丹後成相寺(第28番宮津の成相山)西国観音霊場巡礼道を示す」。久下は味間奥から味間脊山(ナースバシ438m)山塊の南端を抜ける峠を丹波市山南町阿草・上久下・久下を篠山川沿いに加古川合流点付近に出て
井根山城主郭から宝篋印塔側尾根筋の高い切岸下には犬走(?通路)と谷筋俯瞰の長い曲輪
IMG_1221.JPG
「氷上回廊」を但馬方面に進む旧延喜式山陰道。足利尊氏が京を追われ丹波石龕寺へ入ったルート。峠を更に西へ:黒石ダム分岐で西脇市と今田町市原交差点(R372号 市原城)に出て三草山、市原からの旧道?か平木「平木土塁遺構木津城清水寺城」から清水寺(西国第25番)へ進める。西国第28番宮津の成相山へは西紀から山越えで丹波市春日町国領・福知山方面に進んだのでしょう。
        井根山城の城域北東尾根先端部の段曲輪群と切岸
IMG_1216.JPG
井根山の北東山麓の茶畑の細い道の奥に注連縄飾りの石造鳥居が建つ”岩上神社”が鎮まるが元:夙の氏神(加茂神社)の仏像(阿弥陀如来座像)が地蔵堂に祀られ:更に岩上神社に遷し祀られているようです?。”加茂神社旧跡碑”の広い平坦台地の一隅には祠に納まる宝篋印塔(皇妃塚)があり「南北朝(室町時代)以前のもの」と推定され醍醐天皇皇妃陵墓との説もある篠山市指定文化財。
 主郭直下を南尾根続きに堀切?と、尾根沿いを真っ直ぐ落ちる竪堀は兵の横移動を禦ぐ為か!
IMG_1222.JPG

井根山城は市遺跡分布地図や郷土史・市誌等に未掲載・未報告の城砦。井根山城の主郭からは岩上神社への北東尾根・”ケアハウス丹波の郷付近への東南尾根側に数段の曲輪を並べるが殊に東南側の曲輪切岸は高い。両尾根筋の間にも曲輪と両尾根を繋ぐ犬走り?と比較的長い帯状曲輪(2ー3段)は谷からの侵入に備えたものか?。
       井根山城域南尾根続き鞍部の土橋付(堀切?は喰違竪堀状)
IMG_1223.JPG
正面の最高所の主郭は二段の帯曲輪が廻り東下段曲輪を北に廻り込み上段曲輪に入る虎口状をみるが南へ2-3段延びる。主郭部の曲輪幅は8m程で構えて籠もる居住空間もない。南北150m x 東西70m程の城郭規模は近辺では大沢城に次ぐ。此処までか?と思えた主郭部からの尾根続きを下ると一本の長い竪堀状と、鞍部に土橋付堀切(食違い状の縦堀?だが)をみる。
        高仙寺山城(松尾山城)口の「釣鐘の辻」
IMG_1200.JPG
長い竪堀状は堀切を越え侵攻する敵の横移動を禦ぐ施設と思われる。更に南のピーク(主郭と同比高)迄遺構なく引返したが送電線鉄塔の建つ470m付近やを経て、初田酒井党諸城砦群は矢代酒井党の最後の詰城松尾山城(高仙寺城)にも繋がり、大沢城~火燈山の砦?からの尾根筋合流点の「釣鐘の辻」までトレースしてみるべきだったかも…?

この記事へのコメント