佐治城(展望台新設) 丹波市

「道の駅あおがき」からは岩屋山山頂をテイクオフしたパラグライダーが、カラフルなキャノピーを拡げて舞う姿が見られる。空の町(スカイスポーツのパラグライダー・ハンググライダー基地が岩屋山の山頂。
     佐治川と佐治宿・佐治城正面(児島氏城)佐治城(右手は青梨城)・背後に岩屋山
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その山麓に山陰道(篠山街道)丹波側最端:但馬国境へ越える最後の宿場町:佐治宿がある。丹波市青垣町佐治は全国足立姓の祖で源頼朝にも仕えた”足立(藤原)遠元”の孫遠政が丹波国佐治荘の新補地頭職として承元3年(1209)武蔵国より小倉に来住し加古川上流:佐治川沿い(遠政上屋敷が光明寺跡・青垣中学校/下屋敷妙法寺)に
  妙法寺(足立基則開基)の先祖三代廟(遠元・遠光・遠政):左右の石碑も三代墓標
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居館を築き後:佐治荘遠阪川沿いに山垣城を築き本拠を移した。佐治の妙法寺の開基は足立権太兵衛基則香良合戦に於いては芦田上野介(目留)光遠等黒井城の荻野直正との熾烈な戦いに敗れ!戦後:赤井・荻野方に従属する足立家にあって、
         展望台から大箕山(丹波富士)と佐治宿城下
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明智光秀「丹波攻め」がはじまると・ひとり基則は足立一族へ災禍が及ぶの危惧してか!、香良合戦時の遺恨からか?、本拠の山垣城を一族の弥三郎基助に任せ一族から離叛し光秀方に付き、寺社が丹波攻めの兵火に焼失するなか災禍を免れ・織田方の制札が立てられ陣所ともなったよう。
   八柱神社(八王子・恵比寿・金比羅・愛宕・稲荷・天照皇大神宮・天満宮…を祀る)
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基則により先祖三代(遠元・遠光・遠政)が祀られるが、光秀に付き転戦・本能寺の変にも参戦するが天王山に敗れた基則は翌年・亀山で自刃しています。基助が守備する山垣城も天正7年(1579)5月落城・三代(遠元・遠光・遠政)は遠阪の報恩寺(遠政の建立:足立一族の菩提寺)に祀られるが、
    二ノ丸への堀底道(手前)と土塁を挟み主郭側から八柱神社側に落ちる竪堀?
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直近には氷上郡(丹波市)の遺跡分布地図に標記のない八幡山段城(八幡ヶ段城) がある。丹波聖人と謳われる小島省斎も檀家で妙法寺境内墓碑が建つ。但馬聖人:池田草庵とは草庵の母が佐治:岩本の足立家の人で、青年時代から親交があった。
      堀底道から斜上(中)して主郭東斜面を八柱神社への遊歩道は工事中?
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佐治宿の中心:佐治未来館(中町公民館)の南方の山麓に一軒の小屋?が小島少斎の私塾:竹西亭。此の先に八柱神社の鳥居が見えるが、断崖状丘陵裾を縫い佐治宿の中央部を避けるように付けられた幅狭い溝川に沿う細い道が嘗ての山陰道で伊能忠敬測量隊も通った道。
        堀底道から土塁遊歩道伝い二ノ丸に向かう
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佐治城東郭の別名:児島氏城は元弘年間:後醍醐天皇の挙兵に丹波南朝方として六波羅を攻め、弘浪山(高山寺城)に籠もった児島高徳がいるが、城主を小島伊豆守意種は児島氏の所縁?の人物か詳細は不詳ですが西往寺に墓があり法名を意雲と云い小島少斎は意種の末裔…!?ともある。
      二ノ丸東面下の展望台から佐治宿俯瞰
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佐治城は西郭(青梨城)があり文明2年(1470)但馬竹田城主:太田垣宗朝?が丹波に侵攻し青梨山に布陣したと云うが詳細不詳で此処では省く。佐治城(東郭)へは:もう2年ほど前になるか!?、佐治川(加古川上流)堤から望む佐治城跡の主郭・二の丸付近が伐採され展望台が設置されている!!。
  虎口は左右の櫓門を潜る構造だったか?(墓地へ降る大手道?は閉塞:工事中か?)
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公園化され遊歩道が出来た旧展望所は城域南端の曲輪付近だったか?。岩屋山山頂や丹波少年自然の家へ越える幾つかのコースが整備されたハイキングコースがあった。城趾と意識されての木々の伐採・遊歩道の確保と思え!、曲輪切岸や竪堀・堀底道に大きな損傷・壊滅はなさそう?だが、
      愛宕社を祀る礎石壇が遺る?南背後に低土塁が廻る
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小学校側から入る大手道?の(展望台からの道も未だ子供達には危険箇所かも:また直ぐ下方で藪:未だ工事中かも?)二の丸の潜門?か土塁虎口部の一方や、二の丸周囲が金網フェンスで閉じられ、主郭部にそのまま上れず一旦フエンス扉を開閉、散策道を八柱神社へ降る際にも手前のフェンス開閉と煩わしい。

 

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