安場砦Ⅱ 安場砦と街道 綾部市安場
内藤宗勝書状に”…安庭(安場)に敵百余名…須智・山内衆・大槻衆らで追落とし悉く捕え…”とある。山家城の和久氏・内藤氏関連の「和籐合戦」遺跡廻りでは城郭研究家:高橋成計氏と綾部市「山家歴史の会」会員の案内で和籐合戦史跡を廻ったのも同氏のお誘いを受けてのもの。今回も高橋氏同行で安場砦 Ⅰを再訪?できた。
安場砦:西曲輪段
再訪とは云え前回は安場砦・赤坂坪砦ともに未確認のままの撤退で消化不良”目と鼻の先”の低丘陵部にあった。田野町から入った「安場」だが”やすんば(休場)”のことでしょうか?。京丹波町含め近在に”休場”所在地名が何カ所かある。安場砦(綾部市安場町野山・田野町田野山)165mは綾部城砦群の一で守将:平尾某!?が
安場砦:中曲輪段
拠っていたとされる。永禄8年(1565)八上城主波多野氏の被官:江田兵庫頭行範が築城した綾部城(現:大本教本部?)は此れ迄にも火災で消失?。内藤氏が山家城を攻めた永禄8年に宗勝が「下原の合戦」で討死。綾部城は三好氏勢力の衰退・黒井城の荻野直正が京都府の三郡(天田・何鹿・綾部)を勢力下に収めていた時期!?。
安場砦:東曲輪段
上記:宗勝書状の事象内容からは綾部城支城より以前:一帯の土豪は城砦は丹波守護代:内藤氏の勢力下で抑えられていたか・各城砦や守将等について深掘りしていないので詳細は不明。府道709号を三和町岼から三和町上川合-長宮峠を越え綾部市田野町に降りてくる。
安場砦尾根続き南斜面下の街道:左上へ谷沿いに?安場町中程へ
長官峠からは安場町へ通じる山道もあるがR9号(山陰道)の福知山市上安場・三俣から茅の木峠を越え安場へ降る府道522号。府道二本の峠を繋ぐ尾根筋の”長官”南方の浅木山427.4mに浅木山城があり、三俣から狙ったが訪城叶わず諦めたが安場川流域の安場町全域の眺望が良さそうです。
安場砦尾根続き南斜面下の街道:右へは田野町中程へ出る?安場砦は長官峠で田野町側と安場町側の二方に分れ、安場町側から入り込む谷が安場砦165mから南尾根続きの急斜面を下る鞍部?より谷底!の東西を畑地跡かと思える幅広い幾段かの平坦地形が横切っている。嘗ては田野と安場の往来と長官峠を三和町岼・茅の木峠を福知山市三俣に繋ぐ街道が通じていた様。
堀底鞍部?(街道)から登り返す南側丘陵上から浅木山(城・中央)を望む
二方への峠越えや田野や安場へ向かう人々が暫し此処で休んだ”やすんば”でもあったか!?…遠く嶮しい山越えの街道だが府道沿いではなく、丘陵裾を縫って極力渡河地点を避け山間の平坦地形を抜ける通路が街道だったか!?。安場砦から南へ延びる尾根筋?の急斜面底(鞍部)は深く幅広い空堀の様で、
南側にも曲輪(平坦段)がある!!、背後に浅木山城・北正面の安場砦に対する付城か?向かう激急斜面を登りきる尾根上158mからは浅木山城427.4mが望まれ、平坦地形の丘陵頂部に人手が入っているが切岸のない小曲輪が数段ある。態勢を整える余裕のない臨戦の地に土塁・堀切・竪堀等遺構を探す方が無理のようですね。浅木山からの尾根筋最北端に位置する安場砦を意識した内藤氏方追討勢の付城か?。
堀底?の街道を挟む南側丘陵上の曲輪(平坦段)
安場砦:西曲輪段
再訪とは云え前回は安場砦・赤坂坪砦ともに未確認のままの撤退で消化不良”目と鼻の先”の低丘陵部にあった。田野町から入った「安場」だが”やすんば(休場)”のことでしょうか?。京丹波町含め近在に”休場”所在地名が何カ所かある。安場砦(綾部市安場町野山・田野町田野山)165mは綾部城砦群の一で守将:平尾某!?が
安場砦:中曲輪段
拠っていたとされる。永禄8年(1565)八上城主波多野氏の被官:江田兵庫頭行範が築城した綾部城(現:大本教本部?)は此れ迄にも火災で消失?。内藤氏が山家城を攻めた永禄8年に宗勝が「下原の合戦」で討死。綾部城は三好氏勢力の衰退・黒井城の荻野直正が京都府の三郡(天田・何鹿・綾部)を勢力下に収めていた時期!?。
安場砦:東曲輪段
上記:宗勝書状の事象内容からは綾部城支城より以前:一帯の土豪は城砦は丹波守護代:内藤氏の勢力下で抑えられていたか・各城砦や守将等について深掘りしていないので詳細は不明。府道709号を三和町岼から三和町上川合-長宮峠を越え綾部市田野町に降りてくる。
安場砦尾根続き南斜面下の街道:左上へ谷沿いに?安場町中程へ
長官峠からは安場町へ通じる山道もあるがR9号(山陰道)の福知山市上安場・三俣から茅の木峠を越え安場へ降る府道522号。府道二本の峠を繋ぐ尾根筋の”長官”南方の浅木山427.4mに浅木山城があり、三俣から狙ったが訪城叶わず諦めたが安場川流域の安場町全域の眺望が良さそうです。
安場砦尾根続き南斜面下の街道:右へは田野町中程へ出る?安場砦は長官峠で田野町側と安場町側の二方に分れ、安場町側から入り込む谷が安場砦165mから南尾根続きの急斜面を下る鞍部?より谷底!の東西を畑地跡かと思える幅広い幾段かの平坦地形が横切っている。嘗ては田野と安場の往来と長官峠を三和町岼・茅の木峠を福知山市三俣に繋ぐ街道が通じていた様。
堀底鞍部?(街道)から登り返す南側丘陵上から浅木山(城・中央)を望む
二方への峠越えや田野や安場へ向かう人々が暫し此処で休んだ”やすんば”でもあったか!?…遠く嶮しい山越えの街道だが府道沿いではなく、丘陵裾を縫って極力渡河地点を避け山間の平坦地形を抜ける通路が街道だったか!?。安場砦から南へ延びる尾根筋?の急斜面底(鞍部)は深く幅広い空堀の様で、
南側にも曲輪(平坦段)がある!!、背後に浅木山城・北正面の安場砦に対する付城か?向かう激急斜面を登りきる尾根上158mからは浅木山城427.4mが望まれ、平坦地形の丘陵頂部に人手が入っているが切岸のない小曲輪が数段ある。態勢を整える余裕のない臨戦の地に土塁・堀切・竪堀等遺構を探す方が無理のようですね。浅木山からの尾根筋最北端に位置する安場砦を意識した内藤氏方追討勢の付城か?。
堀底?の街道を挟む南側丘陵上の曲輪(平坦段)
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