竹野轟城 Ⅰ 山名四天王(垣屋家) 豊岡市
垣屋家が守護:山名氏に代わり但馬を毛利方に統一した契機となる野田合戦まで
北近畿自動車道R483号「日高北IC」を過ぎ”上佐野トンネル”に入る手前:山の斜面の見覚えに気付いた此処は日高町藤井と竹貫の境。トンネル上の丘陵に竹貫城・水尾城があり抜け出たところが但馬空港IC。一年半前に水尾城と竹貫城と、
轟城東大谷集落の民家から直登出来そうだが?「生コン」会から秋葉社への参道らしい?竹貫城から南へ延びる尾根先端部付近にも曲輪群が有りそうなので”上佐野トンネル”此の南入口から取付いたのが藤井東城(仮称)。水尾城の数週間前に寄った宵田城は垣屋氏庶流の垣屋頼忠(弾正忠)が拠ったといい、山名氏一族の轟城主駿河守時熙(ときひろ)と氏清・満幸の内紛を利用し、山名氏の強大化を嫌った
水生城主郭の石垣将軍足利義満が山名氏清等に時熙の討伐を命じていたが、時熙が義満に許しを請い此れを許した事を氏清らが怒り、室町幕府(足利義満)に対し挙兵した明徳の乱(1392年)に家臣の多くは氏清方に属したが垣屋賴忠(弾正忠)は山名時熙に従い参戦するが討死。足利義満は細川賴之・畠山基国・赤松義則・斯波義重・一色詮範・
竹貫城唯一の堀切がある南郭部南端山名時熙等に討伐を命じ、乱は一日で決し氏清・満幸等は逃走。明徳の乱で没落した山名宗家は時煕の家系に受け継がれ但馬・安芸・岩見・伯耆・因幡…等を領有地を取り戻す。垣屋家も明徳の乱を契機として山名家筆頭家老として応永年間(1394-1427)垣屋隆国が”築城年代は定かでなく文献的にも確認されていないが
藤井東城主郭北尾根続きの堀切”楽々前城を築き、嫡男満成(熙続)が継ぎ、宵田城に二男国重・三男豊茂(国時)を轟城に配して支城としたと伝えられる。応仁の乱(1467ー69)に赤松氏が播磨を回復し・奪還を図り播磨へ侵攻するが押し戻される等弱体化する山名氏の家臣団に対立が生じ山名四天王(垣屋・田結庄・太田垣・八木)四家が対立するようになると守護:山名氏とは対等の地位・勢力を持った垣屋氏が台頭する。
宵田城:本の丸南側の土塁線永禄12年(1569)毛利氏が山名氏を押さえるため織田信長の援助を要請し部将:羽柴秀吉の但馬侵攻に此隅城を追われるが翌年には許され旧領但馬を回復し築城したのが有子山城。天下布武を進める織田氏か・中国地方の覇者毛利氏に付くか…但馬の武将達は揺れ動くなか、織田色を強める田結庄是義(鶴城)と毛利方との連携を重視する家臣団筆頭轟城主垣屋駿河守豊継・宵田城主垣屋忠顕?・
鶴城:貴布祢神社側の堀切八木城主八木豊信・太田垣輝(?照)照延は信長から後毛利の吉川氏に通じる竹田城主が対立し、天正3年(1575)垣屋豊継(毛利方)が田結庄是義(織田方)の家臣:栗坂主水の海老手城を攻め、鶴城の田結庄是義に救援を要請したことで鶴城を攻めた合戦は「織田VS毛利」の代理戦争とされ、是義は菩提寺の正福寺に退き自刃した。
竹野轟城Ⅱ郭から主郭の秋葉社に入る坂虎口・主郭右隅部が張出す野田合戦。この合戦により垣屋豊続(惣領家は反毛利として一族で反目し合ったようだが)は但馬を毛利方に統一。海老手城と鶴城は垣屋氏の持城となり対織田防御ラインを構成する繋ぎの城ともなる。
参考兵庫県の中世城館荘園遺跡 兵庫の城紀行 兵庫県文化財調査報告書岩井城跡 Wikipedia 郷土の城ものがたり但馬編 現地案内板… 次回竹野轟城 Ⅱ 羽柴秀吉の但馬侵攻に抵抗するが宵田表・水生城での戦いに敗れ秀吉に付き鳥取攻めに参軍する轟城主:垣屋豊続。
北近畿自動車道R483号「日高北IC」を過ぎ”上佐野トンネル”に入る手前:山の斜面の見覚えに気付いた此処は日高町藤井と竹貫の境。トンネル上の丘陵に竹貫城・水尾城があり抜け出たところが但馬空港IC。一年半前に水尾城と竹貫城と、
轟城東大谷集落の民家から直登出来そうだが?「生コン」会から秋葉社への参道らしい?竹貫城から南へ延びる尾根先端部付近にも曲輪群が有りそうなので”上佐野トンネル”此の南入口から取付いたのが藤井東城(仮称)。水尾城の数週間前に寄った宵田城は垣屋氏庶流の垣屋頼忠(弾正忠)が拠ったといい、山名氏一族の轟城主駿河守時熙(ときひろ)と氏清・満幸の内紛を利用し、山名氏の強大化を嫌った
水生城主郭の石垣将軍足利義満が山名氏清等に時熙の討伐を命じていたが、時熙が義満に許しを請い此れを許した事を氏清らが怒り、室町幕府(足利義満)に対し挙兵した明徳の乱(1392年)に家臣の多くは氏清方に属したが垣屋賴忠(弾正忠)は山名時熙に従い参戦するが討死。足利義満は細川賴之・畠山基国・赤松義則・斯波義重・一色詮範・
竹貫城唯一の堀切がある南郭部南端山名時熙等に討伐を命じ、乱は一日で決し氏清・満幸等は逃走。明徳の乱で没落した山名宗家は時煕の家系に受け継がれ但馬・安芸・岩見・伯耆・因幡…等を領有地を取り戻す。垣屋家も明徳の乱を契機として山名家筆頭家老として応永年間(1394-1427)垣屋隆国が”築城年代は定かでなく文献的にも確認されていないが
藤井東城主郭北尾根続きの堀切”楽々前城を築き、嫡男満成(熙続)が継ぎ、宵田城に二男国重・三男豊茂(国時)を轟城に配して支城としたと伝えられる。応仁の乱(1467ー69)に赤松氏が播磨を回復し・奪還を図り播磨へ侵攻するが押し戻される等弱体化する山名氏の家臣団に対立が生じ山名四天王(垣屋・田結庄・太田垣・八木)四家が対立するようになると守護:山名氏とは対等の地位・勢力を持った垣屋氏が台頭する。
宵田城:本の丸南側の土塁線永禄12年(1569)毛利氏が山名氏を押さえるため織田信長の援助を要請し部将:羽柴秀吉の但馬侵攻に此隅城を追われるが翌年には許され旧領但馬を回復し築城したのが有子山城。天下布武を進める織田氏か・中国地方の覇者毛利氏に付くか…但馬の武将達は揺れ動くなか、織田色を強める田結庄是義(鶴城)と毛利方との連携を重視する家臣団筆頭轟城主垣屋駿河守豊継・宵田城主垣屋忠顕?・
鶴城:貴布祢神社側の堀切八木城主八木豊信・太田垣輝(?照)照延は信長から後毛利の吉川氏に通じる竹田城主が対立し、天正3年(1575)垣屋豊継(毛利方)が田結庄是義(織田方)の家臣:栗坂主水の海老手城を攻め、鶴城の田結庄是義に救援を要請したことで鶴城を攻めた合戦は「織田VS毛利」の代理戦争とされ、是義は菩提寺の正福寺に退き自刃した。
竹野轟城Ⅱ郭から主郭の秋葉社に入る坂虎口・主郭右隅部が張出す野田合戦。この合戦により垣屋豊続(惣領家は反毛利として一族で反目し合ったようだが)は但馬を毛利方に統一。海老手城と鶴城は垣屋氏の持城となり対織田防御ラインを構成する繋ぎの城ともなる。
参考兵庫県の中世城館荘園遺跡 兵庫の城紀行 兵庫県文化財調査報告書岩井城跡 Wikipedia 郷土の城ものがたり但馬編 現地案内板… 次回竹野轟城 Ⅱ 羽柴秀吉の但馬侵攻に抵抗するが宵田表・水生城での戦いに敗れ秀吉に付き鳥取攻めに参軍する轟城主:垣屋豊続。
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