轟城Ⅱ 垣屋豊続因幡攻めに参軍 豊岡市

竹野轟城Ⅰでは山名四天王の「山名:田結庄が織田方」・「垣屋:八木:太田垣は毛利方」が対戦した「織田VS毛利」の代理戦争とされる天正3年(1575)野田合戦に田結庄氏が滅亡したのを契機に、衰退にする主家:山名氏に取って代わる勢力となった垣屋豊続が但馬を毛利方に統一する。
        東大谷集落(大谷川)から轟城主郭を望む:直ぐ近くに見えるが!
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竹野轟城Ⅱ天正5年(1577)部将羽柴秀長軍による第一次但馬侵攻に有子山城:山名氏政は因幡に出奔し開城、城に残った祐豊は落城後・日経たず病没した。宵田城主垣屋峰信((鶴ヶ峰城主:光成の弟)父子等主戦派は”宵田表”の合戦に抗戦し一時的に羽柴軍を退けたが敗れて楽々前城に敗走し討死したという。
       水尾城東尾根:古墳群のなかのⅤ郭
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天正7年垣屋豊続の要請を受けた吉川元春が但馬へ出兵し竹野まで進出したが南条元続(羽衣石城主:東伯耆)が毛利氏に離叛して撤兵・吉川元春の但馬救援も途絶える。元続は父:宗勝の死が毛利方の謀略とみて離叛し、八木氏も織田方に付き秀吉傘下に入ったものか?・天正8年(1580)部将羽柴秀長による
       水生城Ⅱ郭の三重堀切
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第二次但馬侵攻に山名氏は戦わずに有子山城を開城したが、織田方に徹底抗戦の轟城主垣屋豊続は但馬の軍勢を西村丹後守の籠もる水生城に集結させて最後の抵抗を試みた水生古城の戦いに落城し、豊続は城を脱して余部城・更には田井城(浜坂)へ移り徹底抗戦したが最後は降伏した。
        竹貫城南郭:南端の土塁(塹壕?)
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但馬の国人領主等は所領を没取され秀吉の「因幡め」に送り込まれ…岩常城(鳥取市)に垣屋光政?(豊続の従兄弟?)・私部城(八頭郡八頭町)に山名氏政・若桜鬼ヶ城に八木豊信らを城番に配置。鳥取城落城後:但馬の国人等は因幡国内に知行地を与えられ但馬に復帰は果たせなかったが豊続ひとり但馬に留まり、
        主郭北西尾根の二重堀切・左東尾根側にもU字堀切あり
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しかも秀吉は豊続を厚遇し美含郡(竹野・香住)を安堵し後、宮部継潤に従い鳥取城攻めに参軍。垣屋豊続は竹野を拠点として芝山・香住・浜坂・諸寄にかけての沿岸部を押さえ、地の利と海洋領主として海上輸送に関わっていたと推察され秀吉も此の事で重用したか。「垣屋文書:神戸市立博物館所蔵」に秀吉の豊続宛て書状には
    轟城:南郭先端土塁から観る二重の土塁付外ハ字型!堀切・竪堀がある
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宮部継潤に但馬沿岸部の美含郡(竹野町・美方郡香美町の香住区や新温泉町久斗山)を与えた上で、宮部氏配下で働くことを条件に其の内から竹野を含む2000石が与えられており天正9年鳥取攻めの宮部氏ら軍勢や兵糧米を因幡に搬送(海上輸送)は垣屋豊続の関わりが推察される。
       賀嶋城:主郭の五社神社と西面の大土塁
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轟城は賀嶋城(毛利氏の但馬進出拠点:家臣・都野氏の城!)ともに毛利方として竹野の海岸線沿い(現:山陰海岸ジオパーク:R178号但馬漁火ライン)に鳥取境界の諸寄まで要衝を監視・防備する城砦だったか!?。

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