竹野轟城 Ⅲ 轟城 豊岡市
轟城Ⅰ野田合戦に山名四天王:田井庄氏滅亡・垣屋豊続が但馬を毛利方に統一
轟城Ⅱ毛利は三木城救援に勢力を割かれ但馬援軍を絶ち!垣屋豊続は降伏し羽柴秀長に付く
轟城Ⅲ 山名四天王は因幡に出兵し但馬に戻らず・垣屋豊続ひとり但馬竹野に所領を与えられた
手前に竹野川・轟城南山麓の大谷川が合流する。右手東山麓に畝状竪堀を見る大手筋
但馬轟城(青葉城 147m)は”応仁の乱(1467-)頃垣屋越中守国時?(楽々前城城主垣屋播磨守隆国の三男?)による創築?か、文明年間(1469-87)垣屋駿河守聖忠?(豊茂)の城。秀吉の但馬侵攻に最後まで毛利方として抵抗した山名四天王:筆頭垣屋豊続)の
南尾根:南三段曲輪南先端土塁(左切岸上の土塁線・左手に南虎口)
先祖とされるのが国時?だが豊続以外の城主名等不詳不明確半独立丘陵山頂147mに主郭を置き三方(南と東に落ちる枝尾根と北西に延びる尾根上)を囲む天然の濠となる竹野川と支流:大谷川が要害を形成しており、其の合流地点の北西に聳え
南曲輪群南端土塁下に二重のU字状竪堀・左側にも同様の一曲輪アリ
改修・改築を重ねた連郭式だが…切岸高い崖が独立曲輪の様で曲輪ごとの規模が大きく、曲輪間は連郭式より梯郭式?曲輪段が配置され、幅広い坂虎口(秋葉神社参道として拡幅改修された?)を主郭に入る。R178号から「森本」交差点を右折し竹野川沿い県道1号から見えてくる轟城へは大谷川の合流地点付近から。
南三段曲輪と主郭南端に入る虎口間の虎口受曲輪!?”たけのこ村(2022年廃園?)”側の東大谷集落で道を尋ねた民家背後の丘陵頂部が主郭!だが、北東尾根の蓮華寺(垣屋氏菩提寺)側「竹野生コン」会社裏手に神社参道があり、例年4月の祭礼前には地元で参道普請される大手らしい此処からを
Ⅱ郭から主郭南端の張出部(横矢掛)と平入虎口案内されたが県道1号から東大谷集落への入口部に廃屋(殆ど崩壊)があり山裾の墓地への参道板橋が架かる。南枝尾根筋の二重堀切へは最短だが谷筋は朽ち倒れ落ち込む竹に通過は困難・右手急登だが斜面に取付き尾根を辿り、
秋葉神社を祀る主郭の切岸土塁付末広がり(外ハ字型)堀切から三段の曲輪(曲輪段の南北両端にも櫓台状?土塁があり、土塁下方に馬蹄形というか?外ハノ字型!の二重堀切がある。内側土塁が防禦力を補強した南端曲輪で東西の切岸高く綺麗に残り曲輪東端にも土塁がある。
主郭南角の横矢掛け張出し部と坂虎口(石段は秋葉社参道用か!)急斜面を斜上し一折れする虎口受曲輪!?からは左へ斜上し主郭に入る通路・右端は主郭虎口から監視台状の造出し部があり、高い切岸真下の副郭角にも土塁が、その下段曲輪からも坂虎口が・主郭下段の副郭からも秋葉神社への
東尾根(大手!)Ⅲ(Ⅳ?)曲輪からⅡ郭に入る:Ⅱ・Ⅳ?曲輪の切岸と手前に坂虎口参道石段を伴う拡幅によるものか?幅広い坂虎口が付く。副郭から北尾根筋まで腰曲輪(大型の二曲輪を繋ぐ帯曲輪!?)を廻し、下段曲輪からも坂虎口が此の帯曲輪!に繋がり、共に坂虎口からの入口上部には高い切岸上には曲輪部から
東尾根(大手)先端部:4本の畝状竪堀を伴うU字状堀切
横矢掛け・櫓台状小曲輪?が張出す。主郭からの北・東尾根(大手?)側曲輪のいずれもが相当に広く切岸も高い。轟城の遺構特徴に南と東尾根の先端には堀切を尾根筋左右に落とし堀切・竪堀ともなるU字型竪堀がある。
左右のU字状堀切内に4条の畝状竪堀がある!!なかでも東尾根東斜面のU字型竪堀の内側には浅いが4本の竪堀(畝状竪堀)は他城にも類例は少ない?希有な遺構。此のU字竪堀内に畝状竪堀を持つ遺構を見下ろす切岸高い梯郭式曲輪群?先端曲輪の背後の切岸斜面に石垣かと思えた大小様々な石が一箇所に集積されている?。
Ⅱ郭から坂虎口を主郭に入る大規模曲輪群の轟城にあっては小曲輪の一部だけに見る石積みが曲輪域確保や砂防土留め石とも思えず、防禦用の落石・投石(礫)に使用するものか?。下方に登城口のコンクリート工場の屋根が見える位置にある。
主郭北尾根側の大堀切
東尾根は大手道?だが畝状竪堀より下方に曲輪等はなく尾根筋最先端に位置する最大の防禦ライン!?。北西尾根は主郭からも腰曲輪からも:激急斜面を下るが城域最大規模の大堀切があり、小曲輪を挟み堀切と土塁曲輪と北端に堀切が付くが、
主郭北尾根先端曲輪(東面切岸)の土塁三方の尾根筋のうち此の北西尾根筋にU字型竪堀はない。南尾根先曲輪の切岸は綺麗。轟城では細長い三段曲輪の両端には土塁が付く。また曲輪下で分岐する尾根の南側に二重堀切・南東に一つ堀切があるが何れもU字型(堀切・竪堀)がある。
轟城Ⅱ毛利は三木城救援に勢力を割かれ但馬援軍を絶ち!垣屋豊続は降伏し羽柴秀長に付く
轟城Ⅲ 山名四天王は因幡に出兵し但馬に戻らず・垣屋豊続ひとり但馬竹野に所領を与えられた
手前に竹野川・轟城南山麓の大谷川が合流する。右手東山麓に畝状竪堀を見る大手筋
但馬轟城(青葉城 147m)は”応仁の乱(1467-)頃垣屋越中守国時?(楽々前城城主垣屋播磨守隆国の三男?)による創築?か、文明年間(1469-87)垣屋駿河守聖忠?(豊茂)の城。秀吉の但馬侵攻に最後まで毛利方として抵抗した山名四天王:筆頭垣屋豊続)の
南尾根:南三段曲輪南先端土塁(左切岸上の土塁線・左手に南虎口)
先祖とされるのが国時?だが豊続以外の城主名等不詳不明確半独立丘陵山頂147mに主郭を置き三方(南と東に落ちる枝尾根と北西に延びる尾根上)を囲む天然の濠となる竹野川と支流:大谷川が要害を形成しており、其の合流地点の北西に聳え
南曲輪群南端土塁下に二重のU字状竪堀・左側にも同様の一曲輪アリ
改修・改築を重ねた連郭式だが…切岸高い崖が独立曲輪の様で曲輪ごとの規模が大きく、曲輪間は連郭式より梯郭式?曲輪段が配置され、幅広い坂虎口(秋葉神社参道として拡幅改修された?)を主郭に入る。R178号から「森本」交差点を右折し竹野川沿い県道1号から見えてくる轟城へは大谷川の合流地点付近から。
南三段曲輪と主郭南端に入る虎口間の虎口受曲輪!?”たけのこ村(2022年廃園?)”側の東大谷集落で道を尋ねた民家背後の丘陵頂部が主郭!だが、北東尾根の蓮華寺(垣屋氏菩提寺)側「竹野生コン」会社裏手に神社参道があり、例年4月の祭礼前には地元で参道普請される大手らしい此処からを
Ⅱ郭から主郭南端の張出部(横矢掛)と平入虎口案内されたが県道1号から東大谷集落への入口部に廃屋(殆ど崩壊)があり山裾の墓地への参道板橋が架かる。南枝尾根筋の二重堀切へは最短だが谷筋は朽ち倒れ落ち込む竹に通過は困難・右手急登だが斜面に取付き尾根を辿り、
秋葉神社を祀る主郭の切岸土塁付末広がり(外ハ字型)堀切から三段の曲輪(曲輪段の南北両端にも櫓台状?土塁があり、土塁下方に馬蹄形というか?外ハノ字型!の二重堀切がある。内側土塁が防禦力を補強した南端曲輪で東西の切岸高く綺麗に残り曲輪東端にも土塁がある。
主郭南角の横矢掛け張出し部と坂虎口(石段は秋葉社参道用か!)急斜面を斜上し一折れする虎口受曲輪!?からは左へ斜上し主郭に入る通路・右端は主郭虎口から監視台状の造出し部があり、高い切岸真下の副郭角にも土塁が、その下段曲輪からも坂虎口が・主郭下段の副郭からも秋葉神社への
東尾根(大手!)Ⅲ(Ⅳ?)曲輪からⅡ郭に入る:Ⅱ・Ⅳ?曲輪の切岸と手前に坂虎口参道石段を伴う拡幅によるものか?幅広い坂虎口が付く。副郭から北尾根筋まで腰曲輪(大型の二曲輪を繋ぐ帯曲輪!?)を廻し、下段曲輪からも坂虎口が此の帯曲輪!に繋がり、共に坂虎口からの入口上部には高い切岸上には曲輪部から
東尾根(大手)先端部:4本の畝状竪堀を伴うU字状堀切
横矢掛け・櫓台状小曲輪?が張出す。主郭からの北・東尾根(大手?)側曲輪のいずれもが相当に広く切岸も高い。轟城の遺構特徴に南と東尾根の先端には堀切を尾根筋左右に落とし堀切・竪堀ともなるU字型竪堀がある。
左右のU字状堀切内に4条の畝状竪堀がある!!なかでも東尾根東斜面のU字型竪堀の内側には浅いが4本の竪堀(畝状竪堀)は他城にも類例は少ない?希有な遺構。此のU字竪堀内に畝状竪堀を持つ遺構を見下ろす切岸高い梯郭式曲輪群?先端曲輪の背後の切岸斜面に石垣かと思えた大小様々な石が一箇所に集積されている?。
Ⅱ郭から坂虎口を主郭に入る大規模曲輪群の轟城にあっては小曲輪の一部だけに見る石積みが曲輪域確保や砂防土留め石とも思えず、防禦用の落石・投石(礫)に使用するものか?。下方に登城口のコンクリート工場の屋根が見える位置にある。
主郭北尾根側の大堀切
東尾根は大手道?だが畝状竪堀より下方に曲輪等はなく尾根筋最先端に位置する最大の防禦ライン!?。北西尾根は主郭からも腰曲輪からも:激急斜面を下るが城域最大規模の大堀切があり、小曲輪を挟み堀切と土塁曲輪と北端に堀切が付くが、
主郭北尾根先端曲輪(東面切岸)の土塁三方の尾根筋のうち此の北西尾根筋にU字型竪堀はない。南尾根先曲輪の切岸は綺麗。轟城では細長い三段曲輪の両端には土塁が付く。また曲輪下で分岐する尾根の南側に二重堀切・南東に一つ堀切があるが何れもU字型(堀切・竪堀)がある。
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